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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.30

カラーボトル Dr.大川“Z”純司

CBokawahttp://colorbottle.com/

「物資を届けてくれるのも嬉しいけれど、
こうして歌を届けてくれるのは、もっと嬉しいんだよ」

 

2011年3月の大震災から2年半。

僕の生まれ育った山元町は、宮城県と福島県の県境にある海に面した町。
自分の実家は、その中でも最も海岸沿いの中浜という地区。

震災により家族との連絡が取れなくなった当時、神奈川の自宅にいた自分には、テレビとインターネットの情報だけが全てでした。
被害の大きな場所を中心に被災地の様子が繰り返し報道される中、全く触れられない山元町の様子。
発信する側の人間が弱音を吐いていてはダメだと、twitterで精一杯の前向きな言葉を書き込み、不安を感じている人達を励まそうとしてはいても、本当は自分自身とても不安で、どうしていいかわからなくて。
自分の非力さに絶望した人は僕だけではないでしょう。

高速道路の復旧とガソリンの確保という問題がクリアになった翌4月。
仲間から預かった物資と楽器を車に載せ、メンバー全員で向かった東北。
真っ先に向かってもらった山元町では、変わり果てた光景に言葉を失いました。
自分のよく知る場所で自分の家へ行くのに道に迷うことなんてあるのか。
やっとの思いで辿り着いた実家のあるべき場所は、海に沈み面影すらも残っていない状態。
悲しいという感情すらも出てこない、虚無感。
なんとか無事に避難 することが出来たという家族に、隣町の親戚の家にて再会できた事だけがその時の唯一の救いでした。

そこから福島県新地町、石巻市、気仙沼市と回り、各地の避難所では有り難いことにアンプラグドで演奏をさせて頂く機会も頂きました。

「物資を届けてくれるのも嬉しいけれど、こうして歌を届けてくれるのは、もっと嬉しいんだよ」
今でも忘れられないのが、最後に立ち寄った気仙沼市の避難所で一人のお婆さんが真剣な眼差しで僕に言ってくれたこの言葉。
その時に初めて思いました。
自分に出来る事。音楽の持つ力。
人の命を救う事は出来ないけれど、音楽で人の心を救う事はできるのかもしれない、と。

その後何度も被災地へ足を運び、人々の笑顔の為にカラーボトルの音楽 を届けてきました。
カラーボトルの「聴いてくれた人を元気にしたい」という想いはこの頃からです。

復興へ向けて今も多くの人が尽力しています。
地区によって復興の進み具合も違いますし簡単には言えませんが、それでも一歩一歩、訪れる度に、少しずつ前に進んでいるんだなと実感しています。
大震災から2年半が経過し、これを手にしているあなたの日常から薄れつつあるかもしれない今、復興に向けてまず大事なのは、それぞれが今をちゃんと知ろうとすること、一歩踏み出そうとすることではないでしょうか。

2011年6月福岡KBC TV「ドーモ」の収録で山元町に訪れる。

2011年6月福岡KBC TV「ドーモ」の収録で山元町に訪れる。

2011年秋、石巻のイオンモールにて、ライブを行う。

2011年秋、石巻のイオンモールにて、ライブを行う。

2013年の山元町

2013年の山元町(1)

2013年の山元町

2013年の山元町(2)

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.29

JACKPOT BELL G./Vo.KyoKo

kyokohttp://www.jackpotbell.net/

崩壊から再生へ。そして創造へ。大切なものをなくしても、また一から作りあげたものが音楽と共に未来を創造していく形となったらどんなに素敵なことだろう。

あれから2年。荒浜の海辺へ。町をなくした静かな世界がそこには広がっていた。ぼうぼうに伸びた草むらに咲き誇るひまわりを見つけた。太陽に向かって、希望に向かって咲いているように見えた。何もまだ終わってはいない。でも確かに歩き始めている。

 

震災発生時、私は1人暮らしをしていた自宅にいた。
実家の母とたわいもないメールをしていたその時、緊急地震速報が鳴った。
大きな揺れでテレビが床に落ち、冷蔵庫の上の電子レンジが飛んできた。電気が消え、鏡が割れ、凄まじい地鳴りと近所の人の悲鳴が聞こえた。長い長い揺れの途中、県外のバンドの友人から電話が沢山かかってきていた。しかしどれも通話ボタンを押しても出ることができず、そういった普段とは違う状況にもまたパニックになっていた。

その日は、メンバーと機材車で明かりのない夜を過ごした。真っ暗闇の中これでもかというくらいの星空が残酷に綺麗だったのを覚えている。
全てがドラマのように感じて、これが現実かと思うほどだった。それから一週間、電気のない生活を送った。スーパーに入るまで3時間並んだり、炊き出しに並んだり。
毎日鳴る緊急地震速報に怯えながらいつまでこの日々が続いていくのだろうという不安も、全国各地の仲間や
応援してくださっている方々からのメッセージで、本当に救われた。

あれから2年たった2013年2月、未だ解決しない復興支援問題を抱えている中、新譜をリリースした。立ち止まったからこそ見えた景色、そこから得た絶望と希望への道標を形にしたかった。そして、音楽の力で何かできないか、その思いで震災復興プロジェクトの署名活動への参加を決めた。
震災がれきをごみとして埋め立てるのではなく、思い出と悲しみの大切な遺品として海岸に山積みにし、平和記念公園を作ろうという、東北大学臨床教授の岡山博氏が立ち上げたプロジェクトだ。2月から6月まで毎月仙台と東京でリリースイベントを開催し、署名を募った。全国各地の沢山の方々が署名に協力してくれ、被災地への応援メッセージをくれた。

音楽と震災復興。直接的には結びつかないような気もするが、いつか、震災がれきを積み上げ、その大切な遺品たちで音楽を奏でるステージを作りたい。
私の夢のひとつだ。崩壊から再生へ、そして創造へ。大切なものが壊れてしまって、同じものを手にすることはできないかもしれない。
しかしまた一から作りあげたものが、音楽とともに未来を創造していく形となったらどんなに素敵なことだろう。

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.28

牛来美佳-mica goRai-

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2011.3.11-東日本大震災
福島県浪江町出身シンガーソングライター
「今、この“想い”を歌うから」

あの日から間もなく2年半が経とうとしている。この年月は一体どのくらいなのだろう…。突然の避難指示。帰れぬ故郷・浪江町から離れ転々と避難した後、今年小学2年生に上がった娘と群馬県内で現在も避難生活を送っている。
「突然、町から人がいなくなる…皆がバラバラに…この”想い”どうしたら伝わるの?」
悔しくて悔しくていつも涙が止まらなかった。ちょっと待った…こんな事が本当に起こり得るのだろうか…現実を受け入れる事なんてできず心の中はいつも葛藤の繰り返しだった。
そんな中、ふと背中を押された。一本の電話。「美佳、こんな時だからこそ音楽をやっていかないか…。」ある人の声だった。そこで気が付く、震災3日後に避難先で書いた詩。
「暖かい手が 止むこと知らずに 必ず繋がっていること 忘れないで 僕たちは絶対 生き続ける、繋がり続ける…」
私にはこの“想い”を伝える為の音楽がある、歌がある。
震災前に中断していた自作CDの制作が本格的に再開した。どんどん想いは熱くなる。同じ境遇の人に伝えたい、どんなに離れてても繋がってるって。そしてこの私の歌う姿をみて、どうか励みになって欲しい。そして被災地外にはこの震災を忘れないで欲しいと強く訴えたくて。
牛来美佳が今、伝えたいこと。今、目の前にあるごく当たり前に過ぎないこと…それがいかに尊く大事な事か。
ここに生きていて、家族がいる。仲間、友人や恋人に囲まれ過ごす日々。少し物足りなさを感じながら仕事をし、慣れた通勤路を走り自宅へと帰る。馴染んだ近所や商店街、そんなありきたりの環境で過ごすこの毎日。それが一瞬にして奪われるなんて想像すらしない、想像すらできない。しかし、そんな悲劇が起こってしまった。家族も仲間も友人も、あるいは恋人も…みんなバラバラになった。仕事もなくなり、慣れた道も環境も何もかもがなくなった…突然に。ただただ存在だけする住処に戻れる日は決して近くはない。生きる希望すら見えなくなって、存在する我が町にこの想いを叫んでも届かない。あの日に戻れるのならしがみついて故郷を離れたくなかった。ただあの場所に存在していた自分たちがありのまま過ぎて…どうしようもない。それでも生きてる私たちに生きる意味を持たせるなら…私は歌う、この歌で伝え続ける。

どうか、「忘れないで…」それでも生きている私たちがいることを。

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.27

Loxograph/for521 鈴木 香太

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3.11から何も終わっていない現実、伝える術、音楽、そして今を生きるということ。

故郷である、岩手県山田町は津波とその後の火事でメチャクチャでした。瓦礫まみれの実家跡地に立ち尽くした時、グチャグチャな訳の分らない感情が頭をいっぱいにした事を、今でも思い出します。ただ漠然と、動き出さなければならない、そんな思いが当時から僕の中に今もあります。山田町の景色は瓦礫だけが消え、ほとんどが変わらないまま、何も無いままです。

巷では「東北ライブハウス大作戦」や「AIR JAM」、その他多くのイベントがありました。素晴らしいバンドが数多く出演していました。隣の市の宮古市にはCOUNTER ACTION MIYAKO、大船渡市にはFREAKSが出来ました。地元を音楽で盛り上げる為の基盤が整った状態の中で僕は、何も出来ていない自分に歯痒い思いをしていました。きっと東北の多くのバンドや関東に出ているバンドは、似た思いを抱いたのではないでしょうか。

ただただ何か出来ないか路頭に迷って駆けずり回った結果、辿り着いたのは、東北復興プロジェクト「Re:Light」でした。

思い付いた様に復興支援ソングなんて歌えばいいのか? ただ、地元に帰ってライブすりゃいいのか? 良い様に誘われたライブに、うんうんと出りゃあ良いのか?

数多くの疑問が渦巻いた中、「Re:Light」で出会う仲間とライブし、話をする中で、そういったものは消えていきました。生きている限り忘れられない日が生きている以上伝えていかなければならないこと、何も変わっていない現状、生きている現実の中のとても素晴らしいもの、変えていかなければならないこと、僕らの思うたくさんのことが音楽で広がれと、強く願えるようになりました。

震災以降、何が本当で何が嘘なのか分らない事ばかりです。悪魔のようなNPO法人、金の臭いしかしない政治、ヒーロー気分のお偉いさん、得の為に震災を利用する、そんな糞みたいなことの何が真実か、自分には到底理解の出来ないものです。

地元を含む被災地と全国を音楽で繋ぐパイプが出来た今、本当の意味を成すライブがどれだけ行われているのか、お金でも力でもない、人が人を支える音楽が出来ているのか、僕は僕の生きている本当を、全てを、これからも伝えていこうと思います。

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.26

loxograph Vo./G.山田航太郎

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たくさんの悲しみ、だけどその分生まれた絆。
立ち直そうとする想い。失敗を繰り返さない事。
子供達の未来は誰が作る?

音楽を作る、歌を歌う。聴く。音楽には人の心に訴えたり、価値観を変えてしまったり、人と人とを繋げたりする魔法の様な力を持っていると信じています。この力を信じて素敵な未来を待ちましょう。

僕は福島県の富岡町で生まれ育ちました。子供の頃は原発がある事が当たり前で原発で働く人達がたくさんいて、それが普通なんだと思っていました。少しずつ大人になるにつれ、それが普通ではない事をわかってはいきましたが危険なものだとは思っていませんでした。
先日、福島第一原発で働いている友人と久しぶりに会う機会がありたくさん話をしました。その時に彼の発した言葉の中で一番多かった言葉が「家族」でした。彼は僕と同い年で結婚し子供は二人います。震災後、一緒にいる時間がとても少なくなったと話していました。しかし、家族の絆が強くなったとも話していました。「絆」震災後にこの言葉を掲げた方は素晴らしいと思います。3月11日の震災でたくさんの人が亡くなって、たくさんの人が悲しんで、たくさんの涙が流れました。そしてそれはまだ続いていて立ち直れない人もたくさんいます。しかし、立て直そうとしてる人達もたくさんいます。僕達は、その人達に乗っかり少しでもその人達の想いや言葉を人から人へ伝えていく事、そして自分の考えを発信する事をすべきだと考えています。そしてこの震災は絶対に忘れてはいけない、忘れないように想いを形にして残していこうと思います。僕達はRe:Lightという復興支援の音楽イベントに何度か参加させていただきました。彼らのやっている事は素晴らしいし本物だと感じました。そして彼らのような人達はもっといる。東北は必ず復興する、と確信しました。
原発事故。自分達が制御できないものを使い続けた人類への罰。私達人類が償うべきだと思います。そして絶対に繰り返さない事です。これからの未来に生きる子供達、生まれてくる子供達にとっては僕が生まれてきて感じたのと同様にこれからが当たり前になります。その当たり前をどうするかは今を生きている私達が考え作っていくものです。もし今、3月11日と同じ様な事が起きたらあなたはどうしますか? どうなると思いますか?

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.25

タテタカコ

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例え距離が離れていても、想うということは距離を超えるんだ。

旅をしながら歌わせていただいていると、大切な場所や、また逢いたい人が増えていきます。もっともっと沢山の人の繋がりが生まれていけばいいなぁと思っています。その繋がりを作ることが音楽の役割なのかもしれないと思い始めています。

東日本大震災から1年後の2012年の3月11日に「ASYLUM in Fukushima(アサイラムインフクシマ)」というイベントを福島市といわき市で開催させていただきました。人と人の繋がりをコンセプトに7年前から沖縄で開催されているイベント「sakurazaka ASYLUM(桜坂アサイラム)」を福島でも開催したかったんです。
いわき市にあるclub SONIC iwakiの皆さんと、福島市のオーガナイズチーム『音連れ』の皆さんと一緒にイベントの企画、運営をしました。沖縄の「sakurazaka ASYLUM(桜坂アサイラム)」スタッフも駆けつけてくれて、イベントの運営を手伝ってくれました。
いわきのじゃんがら念仏踊り、沖縄のエイサーの皆さんに来ていただき、そこに集まった皆さんと黙祷をしました。
今、ここ日本で起きていること、生きていること、亡くなった方のことを想う時間になりました。
沖縄と福島。「例え距離が離れていても、想うということは距離を超える。」ということを実感しました。
日本全国どこへお邪魔しても、被災地出身の方、被災地と大切な繋がりがある方と出逢います。
お話を聴いたり、声をかけていただく度に、東日本大震災のことを思い出します。
昨年チャリティーライブツアーでお邪魔した台湾、フランスでも、被災地に家族がいる方、被災地に想いを寄せられている方との出逢いがあり、日本から遠く離れている異国の地で、あの震災のことを再確認させていただく日々でした。
フランスでは震災から1年経った福島を記録したドキュメンタリー映画『花見山の春ーFUKUSHIMAー』を撮られたフランス在住の江口方康監督と出逢い、映画の音楽を作らせていただきました。
その中で、富岡町からいわき市に避難されている佐藤紫華子さん(「原発難民の詩(うた)」(朝日新聞出版)の著者)と巡り会うきっかけをいただきました。
震災直後のclub SONIC iwakiで出逢ったノーマディックレコードの平山さんの協力の下、佐藤紫華子さんと一緒に「ふるさと」というCDを作らせていただくご縁をいただきました。
いろんなところで人と人が距離を越えて繋がっていきます。旅をしながら歌わせていただいていると、大切な場所や、また逢いたい人が増えていきます。もっともっと沢山の人の繋がりが生まれていけばいいなぁと思っています。その繋がりを作ることが音楽の役割なのかもしれないと思い始めています。

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ひとりぼっち秀吉BAND  Vo.ひとりぼっち秀吉

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震災から2年、福島で生きていくということ。
「不安を希望に変える歌を歌いたい」

福島県郡山市在住の4人組ロックバンド・ひとりぼっち秀吉BANDのVo.をやっています秀吉です。震災から2年、今僕が素直に想うこと、それは「不安を希望に変える歌を歌いたい」ということ。

震災から2年以上が過ぎました。僕達は今も地元、福島県郡山市に住んでいます。
3/11の金曜日。その日僕は買い物をしに、スーパーに出かけていました。そして、14時46分。すごい音と共に建物が揺れ、お店のガラスが割れて、たくさんの物が落ちて来ました。外に出ても、駐車場のコンクリートがひび割れて来たり、そこに居る皆全員、気付けばパニックになっていました。
落ち着いて何とか家に帰ると、ぐちゃぐちゃになっていました。全壊です。そして半年間アパートを借りて生活し、よっやく今住んでいる家に戻れました。今想うと、当時自分が乗り越えられたのは、人と人が支え合えたからだと、本当にそう思います。それ以外考えられません。だからこれからも僕は人を信じたいのです。
そして2年が過ぎてもなお、まだまだ心の底から安心するにはたくさんの問題が残っていることは分かっています。
今となっては、自分達も以前とあまり変わらない生活を送ることは出来ていますが建ち並ぶ仮設住宅や、避難して福島から居なくなってしまった知人のことなどを考えるとこの震災が決して風化されてしまわない事を、今も心から願っています。
僕達はここで生きていく。
震災以降、たくさんの支援や、言葉や、音楽も僕達は受け取って来ました。どれも本当に勇気付けられるものばかりでした。ただこれからは、励まされるばかりではなく、自分達が発信していく番だと、そう思っています。恩返しではありませんが、たくさん受け取って来たからこそ、
「福島まだやれるんだ」という気持ちと負けん気を持って、これからもこの町から、外に発信出来る活動をしていきたいと思っています。もちろん、自分達の曲にその想いを込めて。何より今僕達は、こうして笑って生きていられるんだから。

「不安を希望に変えたい」

震災を経験したからとかではなく、もともと「ひとりぼっち秀吉BAND」は、そんな歌が歌いたかったんです。
もちろん、震災以降に出来た曲もたくさんあります。ただ今までと変わらず、素直な気持ちで曲だけは書いていきたいと、そう思っています。自分が伝えたいことを、自分の言葉で。4月12日、『道しるべ』という1stミニアルバムをリリースしました。いろんな人に、聴いて欲しい。
暗い顔はしなくていい。誰かの心にあるちょっとした闇もいつか少しの光に変えられる。そんな歌を歌いたいと思っています。

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※写真は震災で家屋が全壊し、取り壊され更地になった秀吉宅跡地です。

 

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.24

ザ・キャプテンズ Ba.テッド

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音楽は心を豊かにさせる。
そして音楽が豊かな時こそ、愛と平和が生まれる。

皆様、健やかですか? 朗らかですか?
ザ・キャプテンズ、エレキベース担当テッドです。
2011年3月11日に起こった、東日本大震災で被災された皆様、そのご家族の方々に対し、心よりお見舞い申し上げます。
当時私は仙台の自宅にてレコーディング最中でした。
小さな揺れと、地鳴りと共にジリジリと軋む音が数秒聞こえた後、地震は突然やってきました。
物が散乱したものの、私の自宅は損傷がなかったのですが、ライフラインはストップ。近所の方々と協力して、情報交換と食料や飲み物を配りあって、3日間を過ごしました。
私の住む地区は3日後に水道が出るようになり、友達と一緒に食料や水やガソリンを、避難所や老人ホームに運ぶ作業をしました。
自分に出来る事は何か?
そんな事を自問自答しながら、運ぶ物資に喜んでくれる人々の笑顔に、人とのふれあいに、心を救われていました。
私は仙台在住ですが、生まれが宮城県気仙沼、育ちが青森、青森在住の両親は無事でしたが、気仙沼在住の親戚一同の安否は6日経っても取れなかった。不安で心が支配されそうになった時、沢山の笑顔とふれあいに心救われていた。
震災から1週間が経ち、気仙沼の家は全壊しましたが、全員無事だという確認が取れました。それから定期的にボランティア活動をさせてもらいました。
ザ・キャプテンズの活動は今年で12年目。
震災直後、人が生きる上で音楽の必要性に悩んだ時期もありましたが、人を笑顔にしたくて、人とふれあいたくて、心を動かしたくて、見る人に幸せな気持ちを与えたくて始めたこの活動。
2010年11月14日、ザ・キャプテンズのボーカル傷彦が意識不明の重態で倒れ、「脳腫瘍」が発覚しましたが、彼の生命力と、沢山の人達の愛と支えによって、乗り越えてきました。2012年5月27日に10年連れ添ってきたギターヒザシが脱退しましたが、新メンバーのケイ伯爵とジャッキーの加入で、再始動しています。2013年2月13日にはニューシングル『シェイクハンド』には、手と手を取り合って震災からの復興の気持ちを込めました。2013年5月2日には、渋谷O-WESTにて、新生ザ・キャプテンズ2回目になるワンマンライブも控えています。
ザ・キャプテンズは、僕の人生であり、永遠の青春。
沢山の人達とよりそい、愛し合い、笑顔にし、幸せにする為に、これからも活動してゆきます。
音楽は心を豊かにさせる。
そして音楽が豊かな時こそ、愛と平和が生まれる。
皆さん、いつまでも、健やかに、朗らかに…。

 

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.23

サテンドール2000 岡崎恭次郎

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東日本大震災から早2年が経とうとしておりますが、福島、宮城、岩手三県の復興が進んでいるか? と言えば甚だ疑問が残ります。

そんな中で、「音楽関係者(中でも演奏者たち)の元気が目立ちました」。それを「空元気」と観るのも間違いではないでしょう。しかし、あの時点で「空(から)」でない「元気」なんて何処にあったか? 知っている人がいたら教えてください。

私は「音楽好きはバカだからめげないんだ!」と言って歩きましたが、あながち間違いだとは思っておりません。

音楽の緒元は「労働讃歌」「祝祭の唄」「叙事詩」等々だと思うのです。

労働の辛さを声を掛け合うことで和らげ、共に収穫の喜びを分かち合い、逝くものを悲しみ、八百万の神に感謝し…。

仙台からデビューした「ザ・ジケンズ」というバンドがいるそうです。

若い時から知っています。

あのバカさ加減は若いから? ロックンロールだから?

そのメンバーには遂先頃結婚し、子供が生まれた者もおります。

でも彼らはとんでもない経験をしました。
震災に揺れ、何処かで知り合いが命を落とし、住む家を失い、仕事を失い、失意のどん底にいる仲間をもっています。

音楽に本当に力があるとしたら?

それは演奏者の中にもあるが、それを受け止めるリスナーの中にあるのです。

リスナーのいない音楽なんて、無いにも等しいのです。

大晦日、紅白歌合戦の「よいとまけの唄」美輪明宏さんの歴史に残る名唱です。

そして、「阪神大震災」から18年を迎えます。

私たちは忘れてはいけないことの真っただ中にいます。

これからの若者が作り続けるであろう「音楽」。
その中に「普遍」を獲得できるミュージシャンが生まれることを願ってやみません。

私達老人はそんな若者達のサポートができれば満足です。

でも努力しない若者は遠慮なく「罵倒」させてもらいます。

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 Meteoric Swarm(メテオリック スウォーム) Vo./G.矢野雅哉

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2011.3.11。地震。津波。原発事故。
コミュニティの分断。見えない恐怖。
福島県出身バンドマン。想い、歌い、繋ぐ。

福島県双葉郡浪江町。温暖な気候と、海・川・山に囲まれた自然豊かな町。あの日からみんな離れ離れになってしまった、時が止まってしまった故郷を想う。とにかく家族の無事を祈った。それしかできなかった。他には何もできなかった。

そのとき自分は、都内のビル11階の職場にいた。大きな揺れに襲われ、東北が震源と知り、家族のことが頭をよぎりながらも、必死にお客さんの対応にあたった。一段落した頃、テレビに写った映像に言葉を失った。家族に連絡するも繋がらない。とにかくネットとテレビで情報を集めた。その日は連絡が取れなかった。
実家の本震による被害はそれほど大きくなく、両親は一晩を過ごした。12日の原発事故による避難指示で、津島地区赤宇木の避難所へ。ご存知の方もいるかもしれないが、後に公表されたSPEEDIで、最も放射線量が高いとされた地域。知らされずに避難していた。13日深夜に初めて母からメールの返信。「大変なことになったね。心配かけてごめんね。今、避難所にいます」。状況はどんどん深刻化し、15日には二本松市に避難。埼玉への移動を決めていたが、別の避難所にいる親戚を探す必要があった。偶然会った父の会社の取引業者の方が一緒に避難所を回ってくれたり、関西の親戚がガソリンを届けてくれて、車と新幹線でそれぞれ埼玉へ。17日、東京駅まで母と祖父を迎えに行った。母は疲れた顔をしていて、祖父は馴染みの作業服を捨てて小綺麗な格好をしていた。
あの瞬間を一生忘れない。経験したことのない安堵と不安。覚悟を決めた。自分にできることをやろうと誓った。家族は、“人”の力に何度も救われたと話してくれた。自分もメンバーや友人、お世話になっている方の存在に救われている。
震災から半年後と1年半後の9月に一時帰宅をした。誰もいない町。変わり果てた我が家。伸びきった雑草。3.11の新聞。残された洗濯物。それでも浪江町の花“コスモス”は咲いていた。
今も家族は都内で避難生活を送っている。地元の人達は離れ離れ。見えない恐怖。風評被害。強制避難。自主避難。避難できない人。それぞれの想い、事情があることを知ってほしい。
震災から2年を前に、3/10@新宿ACBにて「DIVE福島」の協力によりイベントを開催する。福島出身アーティスト、名産品、トーク等、東京―福島〜全国へ、今できること。福島を知ってもらいたい。笑顔を届けたい。
皆さんの故郷はどんなところですか? 自分は簡単には帰れなくなってしまったけれど、故郷を想い、何ができるか考えるのはいいことだ。大切な場所に、大切な人達がいる。それは当たり前のことじゃないと気付かされた。音楽によって生まれる繋がりの力を信じて生きていく。諦めない。福島は負けない。

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.22

サヨナライツカ G.フナミズマサト

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-2011.3.11 その後の生活と、終わらない震災復興。震災から約2年。震災を忘れない、そして私なりの支援を『続ける』という事。〜青森県弘前市の、とある音楽好きの男性の場合〜 -

2011年3月11日、世界は一変した。今まで経験した事の無い大きな、そしていつ終わるのか分からない程長く感じた揺れ。電気はすべて止まり会社から帰宅を余儀無くされた。初めての経験だった。車に戻りTVを付けると、八戸のコンビニが津波で消えていく映像。難解な文言が並べられたテロップで告げられる被害状況。津波と火災。降り続く雪。

世界は一変した。ネットでは情報が錯綜し、喧嘩があちらこちらで起き、行き場の無いやるせなさだけが残った。福島第一原発は爆発し、節電を余儀なくされ、あらゆる行動が抑制された。
ライブハウス界隈も一変した。ネガティブな世相の波に押し寄せられ、ライブハウスはライブキャンセル・自粛ムードに力を失い、私の友人や、好きなライブハウスの方も辞めざるを得ない状況へ追いやられた。そんな中、弘前の若手バンドのライブが震災の翌週末に控えていた。私の別バンドも誘われていた。みんな口々に「今やるべきでは無い」と言っていた。それは自分のバンドメンバーもそうだった。私は「今、やらなければ」との想いで弾き語りでの参加を決意した。ライブ企画自体も無くなりそうだったが、企画者たちの幾度となく繰り返された話し合いと、ライブハウス側の計らいにより、極力電気を使用しないようにし、開催に漕ぎつけた。いざ蓋を開けると、沢山の人が来場し、終演後は皆笑顔だった。本当にやって良かったと、心から感じた。オムニバスCDのレコ発だったのだが、その売上を全て募金に回すことにした。
素晴らしい後輩たちだと思った。そしてその時私は確信した、音楽には人を救うことが出来る力が宿っていると。
震災直後の5月、釜石と大槌を訪ねる機会があった。そこには、本当に見たことの無い、凄惨と呼ぶしかない現実が広がっていた。ある程度片付けられたとはいえ、まだ瓦礫の山が幾つもそびえ立っていて、更地ばかりの土地はまるで空爆を受けた跡地のように思えた。見た事は無くとも、こんな感じなんだろうなと息を呑むしか無かった。
そこから、何か自分でやれることは無いかと思い、震災チャリティーのイベントにも参加し、今回のサヨナライツカというバンドも「震災復興」という基本理念を持って結成をした。
震災から既に1年9ヶ月経ち、TVはまた中身の無いバラエティーやワイドショーが支配している。昨年9月、福島はいわきへライブをしに行き、翌日色んな土地へ連れていってもらった。こっちはまだ地震・津波の被害と、放射能と風評被害とまだまだ課題は積み重なっている。改めて、全然終わりは見えないなと実感した。サヨナライツカでは手作りCDの売上から100円の募金を続けている。この度色んな人の力を借りて全国へ音源を流通することが出来、その売上からも少しずつ募金をさせて頂く。小さな小さな活動だが、少しずつ大きな力になる事を願って、活動を『続けて』いこうと思っている。続けること、そして忘れない3.11。

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~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.21

DAM 駿平(Vo./G.)

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 震災を経て、周りの物事への考え方が変わった。大阪の俺たちが今できること。

地震が起きた時、俺は大阪のライブハウスで働いていて仕事をしていました。“疲れて目眩がしたのかな”と思っていたところ、同僚も同じことを言っていて、その日出演していたバンドが「地震らしい」と携帯をいじりながら喋っていました。すぐに調べてみると震源地は東北。その瞬間、“さっきの揺れが東北?”と背筋が凍りました。

家に帰ってテレビを点けると気仙沼が火の海になっている。大きな大きな津波に人が呑まれている。その日家に帰るまでいつもと同じ風景で、家の中も電球一つ切れていないのに、テレビの中にだけ映し出される瓦礫、水浸しの町。そのテレビの中の世界が想像を絶するもので、嘘なんじゃないかと思うぐらいリアリティーがなかった。

地震から4ヶ月経って、DAMがBRAHMANと共演することになった。BRAHMANがこの地震に対して行動を起こしていたことを知っていたので、その日のライブ終わりにVo.のTOSHI-LOWさんに「俺に何かできないですか?」と訊いたところ、「自分で行って見てこい。あれを見て何も思わない奴はいない。実際に行って触れて自分で何ができるか考えろ。お前には必ず答えが見える」と言われて、人を紹介してもらい、日程を決め向かいました。

俺達が行ったのは宮城県石巻市。津波の被害が酷かったことで有名な町。不安と勇気を詰め込んだ車でメンバーと12時間ほどかけて“絆”というボランティアグループのいる集会所に行き、仕事をもらった。作業をする場所に行く前に、近くにある大川小学校を訪れることになりました。大川小学校は津波で全校生徒108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった学校。車でそこへ向かう時、景色を見ていると、川に近づくにつれて家が段々と形を留めなくなっていった。そして大川小学校に着いて慰霊碑の前に立った時に気付かされた。“この場所で一つの命が沢山無くなって、それがこの近くに何千、何万と広がっている”。大阪にいる時に、向こうに行っても泣かないと決めていたんですが、どれだけ我慢しても涙が止まらなくなりました。

その次に行ったのは石巻の小渕浜という町で、そこで出会った人達はすごく温かく活気があって、ただ前を見ていました。俺たちが何か力になればと思って行ったのに、逆に沢山の気持ちや元気をもらってしまいました。それからというもの、小渕が大好きで“ボランティアしに行きたい”という気持ちから“会いに行きたい”に気持ちが変わりました。向こうの人達も、「ただ遊びに来てほしい」と。

正直、今俺たちDAMがやっていることはボランティアではありません。ただ会いたい人達と会って、手伝えることをやって、夜になると皆で酒を飲む。帰る時に寂しくなってバレないように少し泣く(笑)。そんな感じです。

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