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怒の百二十六「ジェジェジエの倍返し」

なんだかおかしいよね。今の世の中。極端に「右に倣え」だもの。テレビ離れとかマスコミで言われていると、誰もテレビを見ない。だけども、何かのきっかけで「このドラマが、凄い!」となると、みんながみんな「ジェジェジエ」だし「倍返し」なのです。半沢は、一度も見なかったけど、世間的には視聴率40%を越え、もはや社会現象と化しているのですね。

この前も、地下鉄鶴見緑地線に乗っていたら、天龍パーマのおばさんが車中で「ジェジェジエ!」と叫んでいました。見ると、どからか迷い込んだカナブンがパーマ頭にとまってたのでした。僕は、「あまちゃん」もほとんど見なかったので、「ジェジェジエ」が流行語だと理解出来ず、しばらくはその天龍パーマを「ゲゲゲの女房」ならぬ「ジェジェジエのおばん」と呼んでいたのでした。

でも、ほんと極端ですよね。ドラマの視聴率が上がらないと嘆いていたのに、こんな爆発的なヒット作が出たりもします。話題になってるから、乗っておこうとの考えなんでしょうね。僕は臍曲りですから、話題になればなるほどテレビから遠ざかってしまう。逆に、誰も評価しなかった「赤い糸の女」なんかを、追いかけてしまうのです。

「あまちゃん」は、あのクドカン節をNHKの朝ドラでやった値打ち……そこに尽きる気がします。あれが、民放の深夜枠で放映されていたら、ここまでの人気になっていたでしょうか?マニアックな深夜ドラマという扱いで終わっていたような気もしないではありません。いわゆる「ステージ論」ですね。同じ事をしていても、発表する舞台によって評価も展開も、天と地ほど違ってくるのです。「あまちゃん」こそは、ステージ論の勝利だったと思います。半沢直樹は、堺雅人さん主演でした。芸達者な堺さんが、半沢を演じたから、あそこまでの熱狂を巻き起こしたわけです。堺さんは、半沢直樹40%越えの立役者なわけです。これに異論を唱える人はいないでしょう。だけど、僕は堺さんに一言あるのです。彼の演技に一言あるのです。あの眩しい表情の演技を見る度に、突っ込んでしまうのです。そう、あの表情。誰かに似ていませんか?ズバリ、ウッチャンに似ている。内村光良にクリソツなのです。半沢が、僕には半沢に見えず、ウッチャンに見えてしまう。「笑う犬の生活」か!と突っ込んでしまうのです。

昨日、鶴見緑地線に乗っていたら、例の天龍パーマおばさんがいました。友達らしきおばさんと一緒でした。なんか2人して、ジェジェジエと言い合ってました。「ジェジェジエ」と言うおばさんに、「ジェジェジエジェジェジエ」とやり返す天龍パーマおばさん。「何、それ。ジェジェジエが多くない?」と聞くおばさんに、ニッコリ笑って「ジェジェジエの倍返し」と答えた天龍パーマおばさん。半沢も見ていたのですね。

怒の百二十五 「“ゆゆも”とは?」

今、僕の中で一番盛り上がっているのが「ゆゆも」です。「ゆゆも」って何でしょう? ある女の子の名前であり、小説のタイトルでもあります。僕がこの前から、ある媒体に連載し始めた小説。その主人公が「ゆゆも」なのです。阿波野ゆゆも——彼女は、大阪の日本橋で地下アイドルをしていました。その活動が東京の著名なプロデューサーの目にとまり、メジャーでデビューすることになります。ソロではなくチームとしてのアイドル活動。アイドル歩兵団と名付けられたゆゆもたち18人は、瞬く間に売れっ子になり、超忙しい毎日をおくることになります。そんなある日、歩兵団のメンバーが次々に怪死を遂げていきます。7人目の犠牲者はゆゆもと共に日本橋で地下アイドルをしていた桐生リリア。ゆゆもは、次は自分ではないのかと考え、事件を調べ始めるのです。発見された死体には常に生臭い臭いが付着し、中には手足をバラバラに引き裂かれているものもあります。果たして、この猟奇殺人事件の犯人は? その動機は?

この小説は、漫才師浅草キッドの水道橋博士が編集長を務めるメールマガジン「メルマ旬報」に連載を始めました。何故、メルマガに? と思われるでしょう。これには僕なりの理由があります。本来は、書き下ろしの単行本化というのが自然であろうと思っていました。そのつもりで10万字くらいの分量は書いていたし。そんな折り、博士が日本一のメールマガジンをやっているとの情報が目にとまりました。20人以上の執筆陣。アカデミックな人、こだわりの人、マニアックな人……まさに「たしさいさい」な書き手によるハイパーなメルマガ。月二回発信のこの媒体。「これや!」と感じたのです。僕の最新のホラー小説を連載するのは、水道橋博士の「メルマ旬報」だと。僕は、博士にツイートしました。「あなたのメルマガに連載させてほしい」と。答えは、すぐにありました。「いつでも」。僕は、素早くレスをくれた博士の気持ちにうたれ、最高の「ゆゆも」を書こうと固く決意したのです。おかげで、10万字も書いていた原稿をほとんどボツにしたのです。そういう意味では、ツイッターのやりとりで始まったメルマガ小説。是非、読んでください。そして、「ゆゆも」を世間に広めてください。僕のベストの出来になると思いますので。詳しくは、「メルマ旬報」をネットで検索してください。

怒の百二十四 「アワーズルームとは?」

春めいて来ると、いろんな人が蠢き出します。陽気に誘われて日頃表に出ない人が外をふらつき始めるのでしょう。この前も、地下鉄の中央線で切符を買ってたら、後ろでダミ声がする。

「あんた、本町やから200円でええんやで」
「あら、270円出してもうた」
「アホやな。駅員に言うたるわ」

そんな会話を交わしていました。その声が「犬神家の一族」のスケキヨかAVのマグナム北斗みたいに濁っていたのです。結局、そのオバサン達は駅長室へと乗り込み、「ちゃんと本町までは200円って書いといて!」と大きな声で理不尽なことをがなっていました。まるで喉もとに天竜チョップを食らったような声だなと思っていたら、オバサン2人とも典型的な天竜パーマでした。まあ、春になるとこんな妖怪もどきが巷を闊歩し始めるわけです。少ししみじみしながら、僕が向かったのは肥後橋でした。そこに「アワーズルーム」があるのです。

アワーズルーム……それは、僕の新しい拠点。そこで夢を育み、そこで実務をこなし、そこから創作物を発信する。2年前に株式会社アワーズを立ち上げ、月に10数回トークライブをやってきました。その時からずっと思っていたことがあったのです。ジプシーのように、ライブ会場を彷徨うのではなく、自分達のルームを持ちたい、と。その思いが叶ったのは、去年の暮れでした。アワーズルームのオープン。忘れもしません。去年の12月25日。およそ80平米の部屋にライブスペースとバースペース、それと事務所を兼ねた僕達の部屋の誕生です。さあここから僕達の第一歩が始まる……テンションはマックスでした。

しかし、アワーズルームは決してスムーズにオープンを迎えたわけではありません。12月25日の直前、およそ1週間前までは、そこは麻雀屋だったのです。床には雀卓用のコンセントが雨後のタケノコのように顔を出しています。天井にはダサい蛍光灯が100本ほど並んでいます。キッチンカウンターは、タバコのヤニと炒めモノの油でベトベトでした。ここを1週間でライブスペースに? 不可能としか言いようがなかったのです。僕達は、ライブスペースを持つにあたって、居ぬき物件を探していました。新たに内装とかをする予算が無かったからです。不動産屋から「いい居ぬきがあるよ」と言われて契約したのがここだったのでした。僕達からしたら、昨日まで麻雀屋だったのを、今日からライブスペース兼バースペースにするしかないのです。無理にでも。不動産屋が預かっているスナックやバーの古い備品をいただき、夜逃げした事務所の備品をいただき、僕の手持ちのコレクションを運び込み、かつてやっていたラジオ番組のイベントの設営をしてくれた人にほぼロハで内装を頼み、かつてのスタッフに破格でPAを仕込んでもらって、12月24日になんとかカタチになったのでした。

1ヶ月のうち、20数回はトークライブをしています。そのすべてが竹内義和がらみです。つまりほぼ毎日、僕が喋っているわけです。僕が面白いと思ったことを喋り、それが単行本や映像になり、それがアワーズ発として世に広まる……これこそがアワーズルームのコンセプトなのです。地下鉄四ツ橋線の肥後橋から徒歩1分、地下鉄御堂筋線の淀屋橋から徒歩5分。僕達の夢の拠点に、是非来てください。今日も僕は、アホなこと、面白いこと、興味深いことを喋っているはずです。運がよければ、地下鉄で天竜パーマオバサンと会えるかもしれませんよ。

怒の百二十二 「“気付き”ダイエットへの誘い……」

ダイエットに成功しました。思い立っておよそ1ヶ月半。体重は78キロから70キロに、体脂肪率は33%から25%に。見た目もかなり変化しましたね、自分で言うのもなんですけど。会う人、会う人に言われるんです。「苦労したでしょ」って。僕は黙って首を横に振ります。苦労してないですからね。ハッキリ言って、マジに楽なダイエットでした。小太りで悩んでいる人、肥満気味で不安な人に朗報です。即効性があり、しかも健康的なダイエットが、誰でも簡単に実行出来るのです。巷に溢れているダイエット商品なんて必要ありません。断食する必要もありません。やろうと思えば今日からでもやれます。そして、1週間後には「痩せたな」と実感出来ます。ズバリ言いますね。僕が実践したダイエットの秘訣は、「気付き」なのです。

さて、「気付き」とはなんでしょうか? 何に気付けば体重が減っていくのでしょう? そこに言及する前に、今一度「ダイエット」の本質について考えてみたいと思います。人は何故に体重を減らしたがるのでしょう? 自己満足のため? 健康のため? それとも意志の強さを証明するため? 違います。答えは否です。人がダイエットする一番の目的は「見映え」です。それも他人から見た「見映え」なのです。スリム体型は、カッコいいです。どんな人でも、太っているより痩せている方がカッコいいのです。つまり、体重が減ったとしても「小太り感」が残っては身も蓋もないのです。逆に体重が減らなくっても体型がスリムにシャープになれば、なんの問題もないのです。それがダイエットの本質ですし、だからこそ「気付き」がポイントになって来るのです。

人が行動を起こすきっかけは、「強制」か「気付き」しかありません。躾や教育は常に「強制」により身についていきます。義務教育なんてある意味「強制」の塊です。子供の頃は「強制」で自らを成長させていけますが、自我が強くなるにつれ、「強制」は「反発」を産みます。大人に対してはもはや「強制」は無意味です。仕事や人間関係に関しては、諦めや達観で行動しますが、それ以外のことは自分の意志がないと行動しません。ダイエットも、だから自分の意志でやろうとするのですが、どこか他人事なのです。それは「気付き」がないからですね。

「気付き」とは、まさに気付くことです。自分に気付くことです。もっと言えば、他人が自分をどう見ているかに気付くことです。人間って弱いものです。いくら自分を冷静に見ようとしても、必ず「まあいいや」と精神的にフィルターをかけて見てしまうものです。まずは、この自己愛のフィルターを外す作業が肝要なのです。
……続く

怒の百二十一 「嗚呼、とんでもドラマ「赤い糸の女」!」

凄いドラマが誕生した。それも、月9や大河ではなく、月曜から金曜まで毎日放映の連続昼ドラの時間帯に。ほんと凄いよ。マジでとんでもないよ。何が凄く何がとんでもないのかは、これから述べていくとして、百聞は一見にしかず、とりあえずは作品を見てもらいたい。
タイトルは、「赤い糸の女」。ホラ、このタイトルからして匂うでしょ、怪しげな匂いが。昔から「赤い」ってつくドラマは要注意なのである。俳優陣も香ばしい。主演は、あのマナカナの、三倉マナ。そう、ピンでの出演なのだ。常にニコイチだった彼女たちだったのに、あえてピン。そこにスタッフや本人の本気が感じられると僕は思う。最近は、バラエティでの活躍が目立ったマナカナだったが、彼女たちは、もともと女優が本業。今回マナは、そんなマナカナの原点回帰の思いもあってこのスキャンダラスな役柄に挑戦したのではないか。
で、その結果はどうだったろう……?
成功――だったと、思う。僕は、ここ数回しか見ていないが、よくも悪くもマナが女優としての「何か」に開眼したことだけは確かだったと思うのだ。
「赤い糸の女」は、視聴者の共感を無視したキャラクター設定、昼の時間帯とは思えない下世話なセリフの数々、そして「般若の面」、「落とし穴」、「全身整形」等のまがまがしい小道具から成り立っているドラマだ。そういう意味では、かつての大映テレビを彷彿とさせる造りになっている。いや、とんでもなさで言えば、もはや大映テレビを超えたといっても過言ではないだろう。少なくとも、僕のようなこだわり人間のマニア心をくすぐる作品であることは確かなのだった。
ルームシェアする3人の仲よし女子大生、マナ(役名は唯美)と芹亜と麻衣子。麻衣子には婚約者である麟平がいる。で、だ。マナと芹亜は、あろうことかこの麟平と肉体関係があるのだった。つまりこの3人、部屋もシェアしながら男もシェアしているというわけなのである。ああ、なんという設定! もちろんそのことは、麻衣子だけは知られないのだけども。
さて、マナと芹亜がどういう過程で麟平と体の関係になったかというと。もともと発端は、芹亜だった。芹亜は個室コスプレの風俗店に勤めていて、そこにたまたま麟平が来たのである、客として。彼は立派なイチモツを持つ絶倫で、そんな彼に求められるまま本番に至ってしまう。芹亜は、そのまま麟平との肉体関係を続けるが、どういうわけかマナと麻衣子にも麟平を紹介する。ことをややこしくするためである。芹亜は高校時代、ブスで、綺麗だったマナと較べられていたトラウマがあり、そのため何かとマナを巻き込みトラブルに絡みたがるのだった。
「麟平さんは、立派な男性よ」と二人に紹介する芹亜だが、立派というのは彼の人間性ではなく股間の「イチモツ」のことである。マナは、そのイチモツに溺れ、すでに婚約している麻衣子に悪いと思いながら関係を続ける。麟平が、麻衣子と婚約したのは、彼女の実家が金持ちだという理由。養子に入る魂胆なのだった。ほんとに麟平が好きなのは、マナ。マナも麟平を愛している。麻衣子たちと部屋にいるマナをホテルに呼び出し、ひとときのセックスを楽しむ麟平。二人はホテルで会うと、すぐに体を求め合う。
「すぐにして」
「毎日して」
マナの口から生々しいフレーズが漏れる。
「ショートだったら、毎日」
軽い口調で返す麟平。ベッドでは全裸のマナが麟平の上で腰を振る。昼間とは思えない会話と映像である。
「芹亜とのセックスはどう?」
「彼女は、バイオリン。君は、ビオラかな」
「私がビオラ? じゃあ、鳴らして鳴らして!」
同じ頃、マナの彼氏のメガネくんはエロ本片手に股間をしごいていた。昼間からオナニーシーン。これはある意味セックスシーンより強烈だった。このメガネくんに連絡を入れ、マナと麟平の関係を麻衣子にちくらせる芹亜。
「ひどい、友達と思っていたのに。いつから麟平さんと関係があったの?」
と抗議する麻衣子に、
「何言ってるの、私たちの友情は変わらないわ」
と論点をずらすマナ。
「麟平さん、最低。私の友達とセックスするなんて」
と抗議する麻衣子に、
「君の友達だから大事にしないといけないと思い、したんじゃないか」
と論点をずらす麟平。
麻衣子は、今後二度と二人とセックスしない、サプライズの婚約パーティをしきるという約束で3人を許す。そんな状況でも懲りずに芹亜とマナにセックスを迫る麟平。それやこれやあって、婚約パーティへとなだれこむ。マナが出したサプライズのアイディアは、「落とし穴」だった。花嫁衣装の麻衣子を落とし穴に落とし、ビックリさせて祝福するというもの。マナと芹亜と麟平は海岸にしゃれにならないくらい深い落とし穴を掘る。
そして当日、マナとかに誘われるまま落とし穴に落ちる麻衣子。笑って穴を覗き込む3人。穴の中では、砂に埋もれ死にかけている麻衣子の姿が……! 結局、麻衣子は死んでしまいドラマは急展開を迎える。一人罪をかぶろうとする麟平。麻衣子の死の真相を探ろうとする麻衣子の姉。突然現れるマナの実の母。芹亜の罠でマスコミのスキャンダルのターゲットとなるマナ。そこに刑事やメガネくんやマナの父役の石田純一らが加わって「赤い糸の女」は、波乱万丈の展開を見せていく。この原稿が目に触れた時は、おそらくドラマもクライマックスを迎えているはず。果たしてマナの運命は? 芹亜の行く末は? 麟平の未来は? あなたのその目で確認してほしい。

怒の百二十 「金さんに言いたい」

時代劇のヒーローでは、誰が好きですか?

僕は、圧倒的に遠山の金さんですね。あの国民的ヒーローの水戸黄門より、バガボンドの宮本武蔵より、神出鬼没の鞍馬天狗より、はたまた必殺仕事人よりも金さんなのです。
それは、何故か?

今の僕たちは、いろんな意味で「難解」な世の中で生きています。マスコミの偏向報道、行政の事なかれ主義、モラルの崩壊……。政界を巡る胡散臭さやいじめ問題で、僕たちは嫌というほど「責任逃れ」の大人どもを目撃しています。大人である彼らは、本質をずらし、物事を相対的にすることによって本来の問題をウヤムヤにしてしまいます。

例えば、大津市のいじめ自殺(というより殺人)。これに関しては、少年法や人権を持ち出して、いじめた側を追及することをせず、一般論としてのいじめ問題にすりかえてしまいます。いじめを見て見ぬふりをしていたと生徒から指摘されている担任は、決して表舞台には出ようとしません。学校も市の教育委員会も担任を隠す動きに終始しています。
隠すことによって、自分たちの立場を守ろうというわけですね。生徒よりも、自分たちが大事なのです。
こんな時、僕はこう思うのです。

生徒と一番近いところで日常業務を行っているだろう担任こそが、いじめの実態に精通しているはずなのです。だから、責任逃れで「あれはいじめではなく、遊び」とか眠たいことを言い放つ「いじめた奴」と「その親」。それを受け、「いじめはなかった」と言い続けていた「校長」と「教育委員会」。そんな輩に対して、担任が「オゥオゥオゥ、何眠たいこと言ってやがるんでぃ。お前たちの悪行三昧は、この二つの目でしっかりと見ているんだ」と、啖呵のひとつでも切ってほしかったのです。ほんとに、金さんがいてくれたらとつくづく思ったのでした。

さて、遠山の金さんは、実在した北町奉行遠山景元がモデルになっています。若いころ、不良仲間とつるんでいる時に、勢いで彫り物(桜吹雪だけではなく、女の生首とか、花弁一輪とか諸説あります)を入れたらしい。
奉行になってからは、町人の立場になって業務遂行したことから、庶民の味方の名奉行と呼ばれ、のちに講談や舞台のヒーローとしてキャラクター化されました。そして戦後は、陣出達郎の手によって小説化され、広く一般に伝播されたのでした。昭和30年代に全盛を誇った東映時代劇が、金さんのキャラクターに目をつけないわけがありません。
大御所の片岡千恵蔵を主演に多くの金さんものが製作されました。主な作品を挙げると、「喧嘩奉行」「荒獅子判官」「長脇差奉行」「海賊奉行」「はやぶさ奉行」「火の玉奉行」「たつまき奉行」「江戸っ子判官と振り袖小僧」「ご存知いれずみ判官」「さいころ奉行」「さくら判官」あたり。ほとんどの作品が、遊び人の金さんが幕府を揺るがす陰謀の解明を進め、悪党と対峙した時にさくらの刺青を見せて啖呵を切り、奉行職の達しを受けた金さんが白洲でしらばっくれる悪党に再びさくらの刺青を見せておそれいらし一件落着……このパターンを踏襲しています。
それはいわば、「気持ちいいマンネリ」。言ってきれば、テレビドラマ向きなのですね。1970年からテレビ朝日が金さんのテレビシリーズをスタートさせることになりました。記念すべき第一弾が中村梅之介主演の「遠山の金さん捕物帖」。1973年からは、市川段四郎主演で「ご存知遠山の金さん」を。

1974年には、橋幸夫で「ご存知遠山の金さん捕物帖」、1975年は、杉良太郎の「遠山の金さん」、1982年には、高橋英樹で「遠山の金さん」、そして1988年、松方弘樹の「名奉行遠山の金さん」同じ松方弘樹で「金さんVS女ねずみ」へと続くのです。2007年には、「暴れん坊将軍」でお馴染の松平健で「遠山の金さん」が作られてもいます。

金さんを演じる役者によって、金さんぶりは微妙に違うのですが、やはり共通している「見せ場」は、さくら吹雪の刺青の開陳シーンでしょう。一話のドラマの中で、基本的には二回開陳します。クライマックス直前の悪党との対決シーンと、最後のお白州のシーンでです。映画版は、悪党との対峙シーンでもろ肌を脱ぎます。テレビ版は、ほとんど片肌ですね。刺青のメイクは難しく時間もかかるので、予算のことも考えると片肌ということになるのでしょうね。しかし、テレビ版でもここぞという時はもろ肌を脱いでいましたね。

千恵蔵の金さんは、あの独特の濃い演技と、啖呵が粋でした。悪党の配下に囲まれた金さんが、ぱっともろ肌を脱ぎ、「ご存知金さんの金看板、夜目にも鮮やかな背中のさくら、悪に汚れたうぬらの目にはまぶしくってまともには見られまい。切って血が流れなきゃお代はいらない。さあ、どっからでもかかって来やがれ!」と啖呵を切る。もう、ここが快感なのです。テレビ版は、啖呵があっさりしていて、そこが食い足りなかったですね。

時代劇自体が衰退した今の時代では、金さんの復活は難しいのかもしれません。ならば、学園ドラマで金さんバージョンはいかがでしょうか? 学園長が、不良生徒となって学園内のいじめや犯罪を探り、最後は教育委員会の会議で自らの正体をばらし、いじめっ子やモンスターペアレンツをおそれいらすドラマとかを作ってほしいものです。

怒の百十九 「語る――ということ」

知っている人は知っていると思うのですが。この僕は、21年間に渡って週に一回ラジオで喋っていた人間です。それは某放送局の深夜番組でした。期間は、 30代の半ばから50代の半ばまで。考えてみれば自らの人生のかなりの部分、「喋る」ということに費やしたと言っても過言ではないでしょう。

その習慣が、ある出来事で突然途絶えてしまったのでした。予告なしの番組終了。
「何故?」
それがその時の僕の気持です。僕自身、その事実をうまく認識出来なかったのですから、リスナーからしたらもっと「寝耳に水」だったと思います。何にしろ、 番組は終了しました。何年にも渡って積み上げてきた梯子をいきなり外された感じとでも言えばよいのでしょうか。しばらくは、体調も悪くなり、何をする気も おきませんでした。
が、時間と共に事実を受け入れる余裕が生まれ、それと共に「喋りたい」意欲が増してきたのでした。意欲というよりも、衝動に近いと言った方がいいのかも しれません。テレビを見て、新聞を読んで、週刊誌を買って、レンタル屋さんに行って、友人と飲みに行って――そういった日常の行為が、実は週に一回喋るた めのネタの仕込みになっていた事に気付いたのでした。あの日以来、ネタの発表の場が無くなりました。だけども、その日常は続けられていたのです。だから、 ネタは、日々脳内に蓄積され続けたのでいた。発散することのないままに。

喋る場――つまり媒体がないことで溢れるネタの処理に困った僕は、ある結論に達したのです。なければ作ろう。地上波で番組を持つことは難しいのかもしれ ませんが、今の世の中ネットもあればユーストもあるのです。やろうと思えばいろんな方法が考えられる。で、僕が選んだのは、ライブハウスでラジオをという ものでした。千日前にある美園ビルに、たまたま知り合いがやっている「白鯨」というお店があり、そこでやろうと。トークライブですが、気持ちはラジオ。と りあえずは、ユーストで中継はしますが、会場に来てくれている人に対してネタをぶっつける、それを基本にしよう。そんな気持ちで始めたのが、「オレラジ オ」というイベントだったのです。もちろん、ラジオ番組という体ですから、週イチでやることにしました。木曜日の夜7時半からおよそ二時間に渡るトークで す。

「オレラジオ」を始めたおかげで、溜まっていたネタを処理することが出来るようになりました。塩谷瞬は、「ハリケンジャー」より、「バイオマン(つま り、オマンが倍ということで二股)」に出るべきとか、「飲まない便秘薬」という言い方で「浣腸」をオシャレっぽく表現してるCMがあるが、なら飲む便秘薬 は、「尻に注入しない浣腸」なのかとかといったネタの発表が可能となったのです。興味深い芸能ニュース、突っ込めるCM、街で見かける奇人変人に出会う度 に、「これはネタになる」と思えるようになったのです。
「オレラジオ」は、会場を少し大きい「紅鶴」に変えて今も続いています。まるまる二年半も語り続けているのです。少なくとも100回以上、語り続けてい ることになります。ある人は、毎週二時間も喋って疲れないかと心配してくれます。でも、そんな心使いは不要です。僕にとっての「語り」とは、溜まったもの を吐き出す行為なので、逆に語れない方が疲れるのです。最近は、もっともっと語りたいということで、毎週月曜日にも「マンデーナイトアワーズ」というトー クイベントを開催することにしました。僕にとって、日常がネタです。だから僕が生きている限り、ネタが枯渇することはないのです。

会場に来れない人、ユーストの中継だけでは我慢出来ないファンの方から、「オレラジオ」のCD化の要望がありました。それを受けて、僕は「ぼくらレーベ ル」を立ち上げました。イベントのCD化をはじめ、音楽、映像等のCD、DVDをそのレーベルで積極的に商品化していくつもりです。第一弾として『オレラ ジオ白鯨編』の発売が決まりました。

興味のある人は、是非とも株式会社アワーズのHP(hourz.co.jp)にアクセスしてください。

怒の百十八 「まだ寒いけど、少し怖い話しを…」

阿波座の事務所で弾き語りのメガマサヒデくんと水木しげるのことをあれこれ話していた。メガくんの手には新書サイズの「壺」という水木作品があった。
「古本屋で買いました」
「いくら?」
「二千円」
「意外に安いね」
そんなたわいもないことを言い合いながら、僕たち2人の目は活き活きとしていた。好きな作家の話しをしていると止まらない。
「ほら、これ」
そう言って僕が差し出したのは、コダマプレス版の「墓場の鬼太郎」。美本で落丁なし。軽く2万円は超える掘り出し物。「ホォ」とため息をつくメガくん。喉から手が出るくらい欲しがっているのがわかった。マニア冥利に尽きる瞬間だった。自分の子供が褒められたような気分になる。
「やっぱり昭和40年あたりの作品が最高」
「貸本時代のタッチは、本人にしか出せない。アシスタントのタッチとまったく違う」
熱い水木談義が一通り済むと、いつの間にかホラー映画の話しになり、実体験の怪談話しになっていった。
「そう言えば……」
メガくんが遠い目をしながらこんなことを喋り始めた。トーンが低くなっている。
「いえね、もうずいぶんと昔の話しなんですが」
メガくんは目の前のコーラを一口飲むと、ゴクリと喉を鳴らした。僕はゾッとした。この人の口調、マジや。だいたいこの手の体験談はその口調で本物か作りかがわかる。そういう意味では、メガくん、マジ中のマジである。
「ある日のこと。自分の部屋で寝てたんですね。いつものように」
「ふんふん」
「そしたら、天井から何かが落ちて来たんですよ。ちょうど顔の上に」
「え?何が?」
「それが、ヤモリなんですよ」
「ヤモリって、あのヤモリ?」
「そう、あのトカゲみたいで指に吸盤の付いてる奴です」
「気色悪いですね」
「でしょ。さすがに僕もやな気持ちになったんですね。で……」
「で?」
「次の日も、だったんです」
「次の日も?」
「そうです。寝てたらまたしても顔にヤモリがペタリと」
「?!」
僕は、絶句した。2日続けて顔にヤモリ? 僕ならそんなとこでとてもではないが寝てられない。メガくんは、僕の心持ちを察したようにうなづくと、言葉を続けた。
「ね、そんなとこで寝てられないでしょ。だから2日続いた翌日から、僕は頭の位置をずらしたんですよ。30センチほどね」
確かに、それだけずらせばヤモリが落ちて来ても大丈夫だろう。でも僕なら、寝る部屋を変える。
「ああ、そしたら……」
メガくんは、より声のトーンを落としたのだった。
「その朝に、グラッときたんです」
「グラッて、地震?」
「あの阪神淡路大震災です」
メガくんはブルッと体を震わせた。
「僕の部屋のタンスが倒れ、その角が顔のすぐ横に」
「え?それって?」
「顔をずらしてなかったら、それこそ箪笥が直撃。多分、即死でした」
メガくんは、そう言って何回も何回も頭を上下に振った。あの気味の悪いヤモリが、結果としてメガマサヒデの命を救ったのである。なんとも不思議な話し。僕は、運命の気まぐれを感じながらも、ひょっとしたらメガくんのご先祖がヤモリの姿になって彼を最悪の運命から救ったのではとの思いが捨てきれず背筋に粟がたったのだった。

今年の夏に、何冊かの怪談本を出そうと思っている。僕の身に起こった奇怪なこと、僕の知り合いに起こった奇妙なこと、そういった体験談をまとめて単行本にしたいのである。僕は霊魂や運命といったものを信じないが、いくつか怖い体験をしている。それが自分の勘違いや「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」的なものかもしれない。ただ、そのうちのひとつふたつは、超自然の存在なくして理屈が合わないと思う出来事もあった。
世の中には、科学では割り切れないものがあると思うのか、すべての怪談話しがその人の思い違いか、たちの悪い作り話しであると思うのかは、個人個人の自由である。夏に発売される僕の本を読んでもらって、自分でその判断をしてもらいたいと思う。その時には、メガマサヒデくんの話しも、もちろん採録させてもらうつもりである。

怒の百十七 「久しぶりに、京橋を歩いてみた」

おかげさまで、去年の暮れに出版した書き下ろし小説『ウルトラマンの墓参り』が好評である。特にこの作品のクライマックスを気に入ってくれた方が多く、「凄かった」「面白かった」「感動した」という感想が多数寄せられ、作者冥利につきている。で、そのクライマックスの舞台になっているのが、大阪の京橋なのである。もちろん、それは計算ずく。もともと京橋は、僕にとって馴染みの場所だったからリアル感を持ちながら執筆できたわけだ。学生時代から転々と引っ越しを繰り返した僕は、京橋にほど近い蒲生四丁目に落ち着いた。26歳くらいだったと思う。
その頃の僕は、仕事らしい仕事をしたことがなく、昼間から京橋に出かけてはパチンコ屋に入り浸る自堕落な生活をしていた。勝っても負けても、帰り道に商店街の飲み屋に寄り、ビールをやりながらの夕食が常だった。京橋のよさは、そんな落ちこぼれを優しく包んでくれるところである。学生ややくざや仕事にあぶれた労務者が昼日中からうろついていても後ろ指を刺されない町。懐かしさと癒しが混然一体となった「場所」だったのだ。
『ウルトラマンの墓参り』という作品は、基本的に僕の青春時代がお話しの骨子になっている。主人公の夏木祐太朗が、和歌山市から大阪に出て来るのが、20歳の時。僕と一緒である。バイトを断られるのも、怪しい玩具を子供に売りつけるのも、僕が現実に体験したことである。祐太朗と同じく、美章園という天王寺から一駅のところで下宿をしていたし、そこでいろんな人との出会いがあった。現実の僕は、その後、千里山、下新庄、長居、京都、香里園と居所を変え、蒲生で落ち着く。そして京橋でのパチンコの日々が始まったわけだが、その時の経験が『ウル墓』の後半部分に活かされているのである。
ついこの前、ふと思いついて京橋をフラリと歩いてみた。蒲生から桜小橋へ。左に折れて、線路の手前まで歩きそこを右に。左手の神殿の廃墟みたいなオブジェがある辺りが、祐太朗と浅黄智也が深夜の特訓をしたとこである。もうひとつ手前の道を入ると、『世界の怪物怪獣大全集』を見つけた古本屋の「山内書店」があるし、祐太朗と地元のチンピラが決闘した空き地もある。JRの京橋駅に向かって歩くと、パチンコ屋が何軒かあり、このどこかで祐太朗が店員のアルバイトをすることになったのだ。ちなみに、僕が当時通っていた店は無くなっていた。その頃の主流は、デジタルではなく、アナログの一発台というものだった。しかるべき穴に、玉が入ると、しかるべき役モノが開き出玉が止まらなくなるというやつ。僕は、これにはまってしまったのだ。
「カツ一」の屋号の居酒屋を探したが、それも見当たらなかった。看板に大きく「カツ」と謳っているのに、トンカツも串カツもカツ丼も置いてない店で、そこの主人と言い合いしたのを今でも覚えている。

「トンカツ、ください」
「ないよ」
「じゃあ、串カツ」
「それもないよ」
「カツだったらなんでもいいから」
「うち、カツないから」
「え?カツ一でしょ?」
「カツ一やけど」
「だから、なんでカツ……」
「わしの名前、勝一やねん。何か?」

その当時は、むかっ腹たてて店を出た記憶があるが、今思うといい思い出である。店が開いていたら久しぶりに寄りたいと思っていたが、あの看板はどこにも無かった。残念無念である。よく立ち読みした「大阪書店」も無くなっているし、その近所にあった千のメニューがある喫茶店と呼ばれた「純喫茶 泉」も消えていた。
僕は、京阪モールからコムズガーデンへと足を進めた。20年くらい前に再開発されたとこだが、今はあまり人通りもなくなっている。そこを素通りして、TSUTAYAが入っているビルへ。ついこの前までこのビルには、京橋花月があったのだが、吉本興業の都合か最近撤退したばかりである。僕が学生の頃、あれだけ栄えていた京橋が、どこかしら寂しい「場所」になっている。久しぶりに京橋近辺を歩いてみて、少しショックだった。
『ウルトラマンの墓参り』を読んでくれた人が、興味を持ってこの京橋を訪れてくれたらと、心から思う。そして、それがかつての京橋の賑わいを取り戻す一助になれば、舞台を京橋にした意味も出てくるのかもしれない。『加山雄三ベストヒット』と『ミレニアム』をレンタルしながら、ふとそんなことを考えた僕だった。

怒の百十六 「ウルトラマンが、墓を参る時……」

やっと、そうやっと発売された。僕が、書き下ろした新しい小説「ウルトラマンの墓参り」が。梅田の某大手書店の棚に平積みされているその本を眺めしみじみとしたものだ。思えば、長い道のりだった。この小説を構想したのが、十数年前。5年ほど前には一度完成していた。だけど、その原稿はお蔵入りのまま日の目を見ることはなかった。その後、どういうきっかけで「ウルトラマンの墓参り」は復活したのか? そもそも何故この作品は、かくも長きに渡って封印されていたのか? そこらあたりの裏事情を語ってみたいと思う。
僕は、20歳くらいの時に、家出同然で和歌山から大阪に出て来た。以来、56歳になる現在までずっと大阪に居を構えている。大阪で暮らし始めた時、余りの極貧ぶりに餓死一歩手前にまで追い込まれたことがあった。身内もいない、友達もいない、ましてや彼女なんていようはずがない。絶望のどん底な状況だったが、後になって考えるとそれが「青春物語」として実に貴重な体験になっていることがわかったのである。30歳くらいから、コラムニストとして生活し始めた僕は、いつかその体験を小説というカタチにしたいとずっと思っていたのである。20年くらい前に書いた自伝的エッセイ「長靴を履いた猫の靴下」に、当時の雰囲気を若干醸し出したのだが、いずれ本格的に描いてみたいと常に思い続けていたのである。それにプラスして、その頃バイトで関わったいわゆる着ぐるみショーの実態みたいなものも小説の素材としては面白いと思っていた。そこで、企画したのが、「ウルトラマンの墓参り」という作品だったのだ。つまり、極貧の青春時代と着ぐるみショーの哀切が混然一体となったストーリーを描こうと思ったのである。最初に考えたのが、こんな話しだった。
大学のオリエンテーションで知り合った2人の若者。1つの部屋に同居し、同じ演劇部に入り、同じ演劇部のマネージャーの女の子を好きになる。演劇部の顧問が、演技の練習と部活動の費用のために、デパートの屋上での「ウルトラマンショー」を企画する。演技力では劣る主人公がウルトラマン役になり、もう一人が敵の怪獣ウーとなる。ウー役の若者は駅前デパートのショーを目前に演劇部を辞め、田舎に帰ってしまう。残された主人公は、精一杯ウルトラマンを演じ、その姿を見せることで彼を演劇部に戻そうとする。そんな気持ちも知らず、故郷の公園で時間を浪費する彼。しかし、彼の後を追ってきたマネージャーから主人公の気持ちを聞き、主人公の姿勢に感銘を受けた彼は、ショーの開始直前にウーの着ぐるみを着て現れる。ウルトラマン対ウー、主人公と彼のステージパフォーマンスは圧倒的な迫力だった。2人は、ステージで絡むことによって、すべてのしがらみが消え失せ、心が一体となれた。と、その時、子供連れのお客さんのくわえタバコの火の欠片が風に乗って運ばれ、化繊で出来ているウーの着ぐるみに着火する。あっと言う間にその火は、ウーの全身を包み、中の彼はほぼ即死の状態になる。彼は、その瞬間、演じているウーとして「死」を迎えようと決意する。それが彼の演劇に対する愛だった。その気持ちを察した主人公は、両の手をクロスさせ十字に組み合わせると、燃え上がるウーに向けた。それは、ウルトラマンのスペシウム光線。彼――ウーは、不慮の事故で焼け死んだのではない。ウルトラマンの必殺技で昇天したのだ。それが、主人公のせめてもの手向けだった……。
とまあ、こんな感じの小説を書き上げたのである。で、それを近しい人3名に読んでもらった。1人は大手出版社の編集、1人は東京のプロダクションの社長、最後の1人が北野誠くん。で、その感想は? 結論から言うと、散々だった。編集は、「最後のウルトラマンとウーの闘いはいい感じ。ただ、演劇に関する主人公たちの想いが陳腐すぎる」とのことだった。なるほどそうだなと感じた。演劇に関わったことも熱心に観劇したこともない僕が、俄に演劇通ぶっても説得力なんかない。社長は、「面白くない」の一言。言い返す言葉もなかった。誠くんは、「面白くないわけないけど、普通」と、考えようによっては一番厳しい意見だった。この3人の感想を踏まえた結果、出した結論が「お蔵入り」だった。そして、数年、「ウルトラマンの墓参り」は、僕の創作リストから抹消されていたのである。
「ウルトラマンの墓参り」を復活させようと思い始めたのは、ちょうど1年くらい前のことだった。新しい会社を立ち上げようとの話しが盛り上がりだした時、その会社のキラーコンテンツをどうしようとの展開になった。僕は、自分の書き下ろし小説で勝負したかったし、パートナーもそれを期待してくれていた。株式会社アワーズが登記されるのと同時に小説が出版されるのが理想だった。そのためには、一刻も早く作品を決定し、執筆に入らなければならない。会社のためには、訴求力があり売れ線となるものがほしい。かといって、僕らしさがなくなってもいけない。そんなこんなを考えている時に、ふと脳裏を掠めたのが、お蔵入りの「ウルトラマンの墓参り」だった。内容はともかく、そのタイトルのキャッチーさは魅力だった。一度聞いたら忘れられないネーミング。「ウルトラマンの墓参り? どうしてウルトラマンが、墓参りするの?」。そう思ってもらえたらこっちのものである。よし、この作品に決めた! そこで、問題になったのが、内容である。以前のままで出すつもりはまったくなかった。でも、そうは言っても、一体どんなストーリーにしていいのか皆目見当もつかなかった。毎日、毎日、ずっと内容のことを考えていた。何も出ないのはわかっていても、ずっと考えていた。頭の中が、飽和状態になった時、溢れるように物語りが流れ出した。僕は、プロットをまとめ小説の基本骨格を決めた。当初の作品とは、180度違うものになった。そして、実にエモーショナルなものになった。賛否はあれど、人の心を揺さぶる作品だと自覚出来た。
書き始めから、半年、小説は完成した。出来上がったものを編集に渡した。2日で読んでくれた編集は、「面白い。うちでやりましょう」と言ってくれた。その言葉通り、「ウルトラマンの墓参り」は、2011/11/11に店頭に並び、アワーズの第1弾として日の目を見た。出来上がってきた単行本を、知り合いの辛口読書人に謹呈した。その翌る日、その人から短いメールが届いた。

~今、読み終わりました。よかったです。泣きました~

何故、ウルトラマンは、墓を参るのか? その秘密が知りたい方は、本屋さんに足を運んでいただきたい。