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流血ブリザード

ユダ様生誕30周年の歴史を振り返る特別インタビュー 〜30なったし、たまには真面目にしゃべるもん☆編〜

“過剰演出の鬼畜ロック”を標榜する4人組バンド、流血ブリザード。そのフロントマンであるVo.ユダ様の生誕30周年を記念して、彼らが新宿LOFTを舞台に特別企画“狂喜!! 鬼畜生誕祭”を開催する。ガガガSP、THE冠、おとぎ話といった豪華な共演者は、彼らがいかに愛されているかを物語っているだろう。過激なライブパフォーマンスからは近寄りがたい危険な空気を感じずにはいられないが、それほどの魅力がいったいどこにあるのか? 幼少期にまでさかのぼる貴重な写真と共に、ユダ様の半生を振り返る特別インタビューからその答えに迫った。(※注:過去のJUNGLE☆LIFE誌上でのふざけたイメージを、今回はあえて封印しています…)。

●子供の頃はまだ普通だったんですよね…?

ユダ:習い事もいっぱいしてるような子で、塾とボーイスカウトも行ってたな。泣きながら、ボーイスカウトに通ったりもして(笑)。あとは足がすごく遅かったので、子ども同士の遊びでチーム分けをじゃんけんで決めるような時も最後まで選ばれずに残った挙句、「(相手に)やるわ」って言われるくらいで…。

●悲しい!

ユダ:そういう悲しい経験もしてるし、コンプレックスの強い子どもやった。途中からは授業中にボケたりするようになったけど、今度はウケを狙いすぎて逆にスベりまくったりして…。小中学校の頃は、そんな感じやったな。

●音楽に目覚めたのはいつ頃?

ユダ:当時は全教科の中で一番、音楽の成績が悪くて。縦笛も全然吹けなくて、音楽が一番嫌いやった。中学生の頃になると周りが音楽を聴き始めて、話題を合わせるためにレンタルショップでヒットチャートのトップ10とかのCDをオカンに借りてきてもらって…。

●オカンに借りてきてもらうんだ!

ユダ:結構、過保護な家やったからな。わりと厳しかったし、テストで平均70点以下やったら泣きながら勉強させられたりもした。塾に通いつつ、家庭教師も付いてたんだけど、今につながるキッカケになったのがその家庭教師で。「クラスのヤツと差をつけるために、洋楽とか聴けや」と言って貸してくれたのが、ボン・ジョヴィとニルヴァーナとオアシスやった。

●そこから洋楽を聴くようになったと。

ユダ:その人からはニルヴァーナが一番良いと言われたけど当時はまだわからなくて、とりあえずボン・ジョヴィを一番気に入ってよく聴いてたな。たまたまクラスにも音楽に詳しいヤツがいて、そいつからメタリカとかHi-STANDARDを教えてもらって。話題についていくためにCDを買いまくってたら、だんだんCDを買うこと自体にハマってきたんだよね。

●そこからパンクも聴くようになっていった?

ユダ:セックス・ピストルズやクラッシュも買ってたんやけど、当時は全然カッコ良いと思わなかった。俺の中で“パンクって、すごく激しい感じなんやろうな”と思ってたけど、聴いてみたらイメージと全然違ってたから。今考えると、俺の頭の中で鳴ってたのはハードコアだったんやな。

●ライブにも行っていたんですか?

ユダ:Nine Inch Nailsの来日コンサートの次に、生まれて初めて観た日本人バンドのライブがBRAHMANとSPREADの2マンやった。会場で買ったBRAHMANのCDを家で聴いている内に、部屋で歌うようになって。それまでは自分で歌うなんて考えもしなかったし、カラオケとかに行くのもダサいと思ってたのに…。

●そこが歌い始めるキッカケになった。

ユダ:最初はふざけ半分で歌っていたら、だんだん歌うことが好きになってきて。そこからベイサイドジェニーとかにライブを観に行くようになって、日本のバンドも観るようになっていったんだよね。当時は高校生でまだハードコアも知らなかったけど、ブライアン・バートン・ルイスのテレビ番組をキッカケにTHE RYDERSやアナーキーを知って。そこから80年代のジャパニーズ・パンクを聴くようになっていった。

●昔のパンクも聴くようになったのは、そこからなんですね。

ユダ:そういう人たちがリスペクトしているということで改めてセックス・ピストルズを聴くようになった時に、シド・ヴィシャスのことを知って。そこで“自分よりカスなヤツがいる!”っていうところから、“これなら俺もいけるんじゃないか”と思うようになった(笑)。“みんなのヒーロー”みたいなものは嘘くさいけど、ダークサイドヒーローというか、ダメならダメなほどカッコ良いという価値観をそこで知ったんだ。

●ダメな人間でもカッコ良くなれることに惹かれた。

ユダ:パンクって、ダサかったり、下手やったり、無茶苦茶やったり、クズであればあるほどカッコ良い。こんな世界があるなら、自分にとってすごく救いがあるなと。子どもやったし、“大人がもっと嫌がるものを好きになってやるぞ”っていう気持ちもあったのかな。

●いつ頃から自分がクズだとか思っていたんですか?

ユダ:そもそも小さな頃から運動ができなかったし、勉強もそんなにできるわけでもない。子どもながらに“これだけ塾に通って家庭教師まで付けてもらっているのに勉強ができないし、運動もできない。俺はのび太のような人間やな”と思って、自分が嫌になったりもしていて。でも不良にもなれない…っていう感じやったね。

●“不良”的なダメさではなかったんですね。

ユダ:めっちゃ真面目で校則も守ってたけど、その鬱憤を部屋でパンクとかを聴いて晴らしていて。“高校を出たら俺はロッカーになるんや! そのために俺は大学へ行く”と思ってた。そういう子の鬱屈した気持ちが、後にこういう形(※流血ブリザード)で表れたんやろうね。

●大学に行ってからはどうだったんですか?

ユダ:大学に入ってからは学校にもほとんど行かずに、バンド関係の友だちと遊んでばかりやったね。大学の軽音楽部みたいなところにも行ってみたけど、自分と同じようなパンクが好きなヤツはいなかったから。でも自分自身も本格的にジャパコアとかを好きになったのは、大学を卒業してお笑いを始めた頃からやったけどね。

●大学卒業後、一度はお笑いの道に進んだ。

ユダ:そもそも子供の頃の作文に、“将来はお笑い芸人になる”って書いてたくらいやったから。最初はまだ舞台にも立てなかったので、仲間と一緒にライブハウスを借りてネタ見せをしようということになって。“流血ブリザード”っていうのは元々、そのイベント名やった。当時はまだその名前でバンド活動はしてなかったけどな。

●バンドを始めた当初はどんな感じだったんですか?

ユダ:最初は3人くらいの前で、ライブをやったりもしてたね。ライブの途中で音が止まって、2曲くらいしかできなかったりもして。アンプに頭から突っ込んだらヘッドが落ちて音が出なくなったり、物を投げてモニターが壊れたり、メンバー同士で乱闘したりとか…。「こんなに明日のないバンドを見たことがない」って、みんなが言ってたよ(笑)。

●まさに、ノーフューチャー(笑)。

ユダ:でも「明日には消えてるやろ」って言われながら毎月、自分たちで企画をやっていたんだよね。ヒドい時なんて、人前でイってみせるっていう企画でディナーショーをしながら1人でチ●コをしごき続けたりもして。

●それはひどい(笑)。

ユダ:そういう活動やから、メンバーもどんどん辞めていった。毎回ライブの度にサポートメンバーを入れつつ、遠征に行ったりもして。それでもイベントに呼んでくれる人もいたし、たまに有名な人とも対バンするようになっていったんだよね。最初は「おまえらは狭いハコを一生出られない」とか言われていたところから、JUNGLE☆LIFEに出て、民放に出て、“長田大行進曲”や“COMIN' KOBE”にも出たりして…。

●そして今回は新宿LOFTで豪華な対バンを迎えて、生誕記念祭までやると。

ユダ:メッセージ的なことを本来は言いたくないんやけど、「俺らみたいなもんでもできるんやから、みんなもやったら?」っていうことだけは子どもたちに言いたくて。原点まで戻るとボーイスカウトに泣きながら通ってたり、学校でもパッとしなかった人間がやったバンドがよりによってこういう道を行って、新宿LOFTでこんなイベントをやる日が来るんやなと。何年も前から思い描いていたことではあるんやけど、実現するとうれしいよね。

●30歳という区切りに特別な想いがあったりする?

ユダ:「芸事は30歳まで」ってよく言われるけど、実際にはみんなそこまでも行かずに辞めていったりする。30歳を過ぎてもやってるほうが、本物だと思うんだよ。俺がステージで無茶苦茶なことをするのは、パンクロッカーとしての使命感からで。そもそもパンクって物を投げたり、服を脱いだりとかするものだと俺は思ってるから。自分で“パンク”と名乗った以上は、そういうことをしなきゃいけない。お茶の間とかメジャー志向のコンサートは別として、アンダーグラウンドのパンクやハードコアのライブではやっぱり危ないものを見せていかなきゃあかんと思うんだよね。

●今回で30歳を過ぎて、次なる目標は?

ユダ:無茶苦茶アンダーグラウンドなことをしてるのに、お茶の間の人たちも知ってるような存在になりたい。本来みんなは絶対に無理やろうと思ってるようなことを俺らはやっていきたいし、毎年少しずつでも記録更新していきたいね。

Interview:IMAI

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