休みの日に友達と遊んだ。
高校を卒業した頃から「遊ぶ」という言い回しがしっくりこない。公園を走り回るわけでも、サッカーをするわけでもないのに「遊ぶ」って何だろう。「ご飯に行く」とか「お茶をする」と言うのもなんか小洒落た感じがして、自意識が邪魔をしてなかなか言えない。だからしょうがなく、全部「遊ぶ」と言ってしまう。
でもこの日は久しぶりに「遊ぶ」だった。よくわからないノリで、近くにある公園で遊ぶことになった。どうしても鉄棒がやりたくなった。今の自分は逆上がりができるのか確かめたくなった。
その日はスカートを履いていたから、パンツ丸出しのリスクを見極めようと、手始めに一度鉄棒に手をかけて前回りをする体勢になってみた。全然ダメそうだった。結局、わざわざその友達の家に一度寄って、ジャージのズボンを借してもらった。
準備万端になった私はやる気満々で、さっきと同じように前回りをする体勢になった。いきなり逆上がりはハードルが高い。逆上がりはかなり練習してできるようになった記憶がある。
いざ体を地面から離した瞬間、前回りするビジョンが全く見えなくなった。一気に不安に包まれて、そこから動けなくなった。
隣の鉄棒を見ると、同じく前回りをしようとした友達も硬直していた。2人で一回地面に足をつけて、「異様に怖くないか?」、「どうやってあの頃前回りをしていたのか?」と、一緒に混乱した。
いや、前回りが怖いだけで逆上がりならいけるのではないか。そうやって今度は逆上がりに挑戦することにした。
鉄棒を握りしめて、逆上がるための軽い助走をしてみたけど、その先どうやって自分が鉄棒を逆上がっていくのかやっぱりわからない。昔あんなに練習してできるようになった逆上がり、私の中にはもう何も感覚が残っていなかった。
友達が鉄棒にぶら下がりながら、「こうやって昔できてたこと、色々できなくなっていくのかな〜」と嘆いた。「この先の人生、今まで手に入れたものどんどんこぼれ落ちていくだけなのか」とか、そんなところまで思考が行きかけた。いやいや、私は、私たちは、まだまだ手に入れている最中だ。そんなはずだ。
(前回りは一旦置いておいて)今日、ここで、逆上がりができたら何かが変わる気がする。私は物語の主人公かのように、友達にも同じことを口走っていた。小洒落ている感じがして「お茶する」とか「ご飯行く」すら言えないくせに、こんな臭い台詞は言えてしまう自分にゾクゾクした。
再び鉄棒を握って、恐怖でうめき声をあげたり、地団駄を踏んだり、ひたすら助走を繰り返したり、逆上がりしそうなフェイントムーブをしたり、どうにかして逆上がりをする未来に目を凝らした。とにかく何が何でもこの先一瞬の「できそう」を見逃してはならない。
隣の鉄棒では、友達が先に感覚を取り戻し、ビビりながらも逆上がりをクリアしていた。私も早くそちら側に行きたい。鉄棒を強く握り締め、地面を蹴り、空が見えた。何が起こったのかわからないけど、多分逆上がりしたっぽかった。
2人で興奮して、嬉しくてその後もビビりながらも3回くらい逆上がりした。何でもできるような気がして、ついでに前回りもやってみた。怖かったけど、できた。もうこんなの、何でもできるじゃん。
逆上がりできることが嬉しくて堪らなかった。手に入れたもの、この先手放していくだけなわけがない。そんなのいいわけない。こぼれ落ちないように抱きしめながら、欲を言うならまだまだこの先も拾い集めていきたい。
そんな私たちの様子を、小学生くらいの女の子2人組が炭酸のジュースを飲んだり、冷凍ぶどうを摘みながらニヤニヤと見ていた。
怪しくないよ。怖くないよ。きっといつかわかるよ。これが、君たちの将来だよ。
私は毎週「星野源のオールナイトニッポン」を聞いている。大体お風呂に入りながらとか寝る前に、生活を淡々と進めながら聞くことが多い。
最近終了してしまったけど、星野源さんと番組スタッフさんがぶっつけ本番で演じるラジオドラマコーナー「星野ブロードウェイ」は、特に絶妙な緩さとくだらなさで、意識がぼんやりとしてくる深夜に聞くのにちょうど良い。この日もいつものようにぼんやり聞きながら、お風呂に入って、髪の毛を洗っていた。
「みんな潰れるって決まってから好きになってんだよ。」
「潰れる前は何も思ってないの。で、潰れるって決まってから寂しさが評価に混ざり合って好きになってんの。」
「みんなね。なくなるものが好きなだけなんだよ。」
「なくなるという現象にはしゃいでるだけ。」
ちょっとビックリして、髪の毛に泡がついたまま立ち尽くした。明日潰れると決まった売れない喫茶店の店主演じる星野源さんが、潰れると決まってからお客さんが続々と尋ねてくる様をコミカルに憂いているだけなのに。
不思議と自分やアイドルという存在と重ねて聞いてしまって、火照っていた体と意識が急に冷たくなった。このコーナーは緩くてくだらないけど、急に核心をついてくるから恐ろしい。
「続けることは立派だよ。でも、それには気づかないもん誰も。終わるって決まらないと気づかない。」
私も同じことを考えていたことがある。実際前にブログで似たようなことを書いた。
「続けていくたびに、続けることが一番難しいことを痛感する。続けるって、続いているうちは特に気になるような現象じゃないというか、何事でもないような感じがして、当たり前の顔をしてそこに在り続けるからその重大さに気付けないというか。」
私はそんな風にブログで書いた。でも、そんなことを書いた私も近所の気になっているお店にずっと行けてなかったりする。どうせなくならないだろうとあぐらをかいている訳じゃないけど、行ってみたいと思ってから間違いなく2、3年は経っている。そもそも何のお店なのか、いつからあるのかすら知らない。今も変わらずお店が営業していることしかわからない謎のお店。「いつか行きたい」の「いつか」が来ないまま今に至ってしまった。
最初の立ち尽くしから、まだ私は髪の毛も洗い流さず、iPhoneを握り締め立ち尽くしていたっぽい。お風呂場の鏡に映る自分がなんだかダサくて、さっさと髪の毛を洗い流して逃げるように湯船に入った。
私も続けていることの意義を忘れてしまいそうになる時もある。「続けてくれているお陰だよ」、「続けてくれて有難う」って私を繋ぎ止めてくれる人たちが居なかったらどうなっていただろう。
だからと言って、不安定な存在であることをチラつかせて気持ちや言葉をカツアゲするようなことはしたくない。あの近所の不明なお店のようなスタンスで居続けたい。あくまで会いたいと思ってもらえる努力は絶対に惜しまず、あわよくば愛してもらえたらラッキーな感じで。続けているうちに、続けていることを少しでも多くの人に気づいてもらえるように、私は精一杯「続ける」を丁寧に続けていきたい。
湯船から上がって、決めた。来週良い加減あの近所の不明なお店に行ってみよう。自分の目で確かめよう。もしもなくなると決まった時、寂しさが評価に混ざって美化してしまう前に。
最近柿ピーが欠かせない。
大抵の人がぼんやりと好きなものを、 わざわざ好きだと言うと今更感があるし、何だかしっくりこない感じがする。
同じグループのメンバーに、柿ピーを食べている場面を見られては「ハマってるね〜」と言われる。それがいつもちょっとだけ恥ずかしい。その度に「まぁ…まぁ、そうね」と、思春期みたいな反応をしてしまう。確かにハマっていると言われたらそうなるのかもしれないけど、冷静に好きという感覚が近い。
食べる割合は、柿の種2〜3個に対してピーナッツ半身or小さければ1個丸々。このバランスで食べるのが好き。
ただ、コンビニで買うコンビニ産の柿ピーだとありえないくらいピーナッツが余る。大量に余ったピーナッツたちを見ると、「これは私が悪いのか…?」と気まずくなる。その居た堪れなさから逃れるために、いつも余ったピーナッツはナッツが好きなメンバーや家族にあげたりする。
「亀田の柿の種」なら私の食べる割合と相性が良く、どちらも残らず綺麗に食べ切ることができる。だから変な罪悪感を抱かないために基本的には「亀田の柿の種」を買うようにしている。
考えてみたけど、別に何かきっかけがあったわけじゃない。次第に食べる頻度が増えて、気づけば毎日食べるようになって、今はとりあえず常に持ち歩いておきたい。一番好きかと聞かれたらそこまでの自信は持てないけど、この先も長く食べ続ける気がしている。
私もみんなも新しいものが好きだから、新発売のスイーツとか、見たことないパッケージのお菓子に出会ったら気になって買うだろうし、また違う何かにハマるかもしれない。新しいものが生まれては消えゆくその間にも、柿ピーはブームに左右されず、ずっと愛されて存在し続けるんだろうな。
柿の種がいつからあるのか調べてみると、1924年頃に誕生したらしい。時代やブームを超えて愛され続けるものこそ本物じゃないか。その上変化を恐れず、チョコレートをかけられてみたり、カレー味になったり、あえてピーナッツと別々に売られたり、はたまた別のおつまみと組み合わされたり。柿ピーはなんて健気なんだろう。
そんなことを考えていたら何だか柿ピーのことが愛おしくなってきた。柿ピーって格好良いな。柿ピーこそ本物だ。柿ピーになりたい…!
耳掃除中の一堀り、一掻きごとに、生み出た成果を見ずに堀り続けることができる人は凄い。
私は一掘りごとに絶対見てしまう。その掘り掻きの手応えが、成果が気になって仕方がない。見ずには次の手を打てない。いや、そもそもアイドルは耳垢とか溜まらないんだけど。だから、今から書くことは読んだ後に綺麗さっぱり忘れてほしい。
まず、なぜこんなことを考えたのか。
私はホットヨガに通っていて、そこにはドライヤーや化粧水、綿棒などが用意されているパウダールームがあり、そのパウダールームで知らない女性が耳掃除をしているのを理由もなく横目で見ながら耳掃除をしていた時があった。アイドルである私は、耳掃除というか、虚無を掘っているだけだけど。
その女性は30秒ほど掘り、掻き続け、チラ見もせずに綿棒をゴミ箱に捨てた。一掘りごとに成果を確かめる私と、掘り進めて一瞥もせず綿棒をゴミ箱に捨てた知らない女性。格好良いと思った。「アーティストじゃん」って思った。
アーティストには、周囲の反応やこうなってほしいという願望とは別に、自らの感性を信じて自分の作りたいものを、評価や見返りの有無に関わらず生み出し続けるイメージがある。
一方大半のアイドルは、ファンの人たちが望むものを届けたい気持ちを持ち、周囲の反応に重きを置き、あらゆる反応に敏感で、自分が生み出したあらゆるものには何かしらの反応が欲しいと思っている。もちろん、アーティスト気質のアイドルも居るし、それに対して良い/悪いも、正しい/間違ってるもない。
私はアイドルだから、一掘りごとに反応(耳の中の成果物)を確認せざるを得ないのか。ちなみに、私の耳の中は乾燥していていつ掘っても掘り甲斐がない。それなのに一掘りするたびに反応を確認して、やっぱり何も無くて面白くないなと思う。それでもまた次に掘る時、健気に確かめる。
アイドル掘りとアーティスト掘り。私にはやっぱりアイドル掘りが合っているんじゃないかと思う。今までの一手がたとえ空振りだったとしても、いつの日か思いもよらないような大きな反応を得られると信じている。これからも一つ一つ丁寧に、自分のこの一手は届くべきところに届きうる一手なのか自問自答し、その反応を確かめ続けたい。
今までの話はあくまで、耳掃除の話。どうか、読んでしまった貴方がこれまでの話を綺麗さっぱり忘れてくれますように。
ホラー映画ばかり観ている。
特にB級(飛び越えてC級くらいまで)の「スプラッター」というホラー映画のジャンルが好きで観ることが多い。
こんな風になってしまったのは、おそらく父と観た「バイオハザード」の影響だ。当時小学生の私は怯えながら見ていたけど、主人公の卓越した身体能力、迫力抜群のアクション、ゾンビの恐ろしいほどの食欲や食事シーンは衝撃的だった。
ゾンビの群れが人の腸を引き摺り出し、麺を啜るように食べるシーンを見た時のショックは忘れられない。人(の姿をしたゾンビ)が人を食べるという私の中の常識が覆された。ホラー映画漬けの私を見るたび、母はいつも「父のせいだ」と言う。
よく観るホラー映画は、お化けというよりは人間の怖さをフィーチャーしたもので、理不尽であればあるほど、胸糞が悪ければ悪いほど最悪で最高。ゾンビ、心霊、悪魔と通ってきて、殺人鬼・拷問系でここ数年は落ち着いている。
今まで観たホラー映画を記録しているメモを見ると、これまでに約180本のホラー映画を観ているらしい。それでいて恐怖に慣れることなく私は毎回ちゃんと怖がる。お化けは怖いし、叫んでしまうし、手に汗握るし、驚かされれば体が波打つ。最悪なものを目にするたびに、心から「最悪だ」と思っている。ストーリーの理不尽さに呆れ、腹が立ち、放心する。観たホラー映画が夢に出てきて、慌てて飛び起きることもある。
それでも何故、ホラー映画を観てしまうのか。
ホラー映画を観て、自分の置かれている環境や、当たり前に過ぎていく日常への有り難み、その幸せを確かめているのかもしれない。特に拷問系を観ている時、「生」を実感する。何も悪いことをしていない、ちょっとお調子者なだけの若者が理由もなく手足を切断されたりする。(比べるのも不謹慎だけど)そんな状況に比べたら、今送っている日々にもっと感謝するべきなんじゃないか。私は、私たちは、今、何も最悪ではない…‼︎
人が死なない映画を観た方が良いと笑われることもある。人が死ななそうな映画を選んでみたこともあるけど、気づけば死者が出ているし、ホラー映画の「起転転転転…結」のような展開に慣れてしまったせいで、通常の「起承転結」だと退屈に思えて、途中でリタイアしてしまうことだってある。
人生を変えた○選なんて、これまで観た映画のラインナップじゃ選べない。もし人生が変わってしまったら、きっとその時は事件沙汰だ。
ホラー映画を観て最悪の気分になれるのは良いことなのだ。悪夢を見て目が覚めた後の安心感と一緒。現実は決して最悪じゃない。
この先もホラー映画を観て、体を震わせながら、今ある幸せに気づき、噛み締め、感謝し、もっともっと最悪になりたい…‼︎
お正月が大好きだ。
いつも目の前のことに必死で、肩で息をするような毎日の時間の流れと違う、お正月にしかない空気がある。忙しい日々も嫌いじゃないけど、誰もが平等にゆっくりすることを許されている気がして安心する。何だか無性に良いスタートを切れるんじゃないかと、底知れない運の良さすら感じる。誕生日よりも盛大に、誰も彼もが一体となって新しい年を迎えることを祝い、喜び、めでたがる日。
そんなお正月の我が家の過ごし方は、お正月に対してしっかり準備をしたり、頭を悩ませずに、世間がやるであろう手順を踏んだり踏まなかったりするというものだ。早速、このイベントのほぼメインであるおせちは食べたり食べなかったりで、我が家全体としてもおせちへのこだわりは誰からも感じられない。私も伊達巻きが食べられたらラッキーくらいにしか思っていない。
でも、お雑煮は必ず食べる。お雑煮は家族みんな好きで、私もこの世に存在する汁物の中でベスト5に入るくらい好きだ。何故、誰に禁止されている訳でもないのに、こんなにも好きなのに、お正月以外で口にすることはないのか。それが毎年不思議で、毎年綺麗に忘れて、毎年食べる頃に思い出す。
そして満腹になった体をソファに投げ出し、延々とお正月特番を観倒す。レッドカーペットに乗って流れてくる芸人さんが次々とネタを披露するお笑い番組を観て、終わったかと思えば今度は東西に分かれて交互にネタを披露するお笑い番組が始まって、私は笑ったり寝たりを繰り返す。気づけば日も暮れて、芸能人が高級ワインを飲み比べたり、高級バイオリンを聞き分けたり、ひたすら「高級物」と「安物」を見分けるクイズ番組を無心で観ながら、自分の空腹に気づく。そんなこんなで初詣は基本的に夕方以降になることが多いし、はたまた数日後だったりする。
だらしなくてベタなお正月だけど、大晦日は一味違う。大晦日はいつも、近くに住むおじいちゃんおばあちゃん、おば、おばII、いとこ…と、家族という家族が私の家に集まり、新年を盛大に迎える。
年越しの瞬間は「黄色いものを身に付けておくといい年になる」というおじいちゃんおばあちゃんの言い伝えで、その場に居る全員が黄色い靴下を履く。ずっとその渦中に居ながらこの習慣は特殊な予感がしていて、昔から念のため友達に話したりはしなかった。
日付が変わる瞬間はジャンプをする。楽しい気がするし、空中で年を跨ぐのはなんか格好良いから。これは任意で、基本的に自分しかやっていない。
日付が変わって、各自が一通り感嘆の声をあげた後、 おじいちゃんとおばあちゃんは南米の血が入っているからか、情熱的なハグをしてくれる。ほっぺにはほぼ突進するような勢いで挨拶代わりのキスも。いつだって思春期の私は素直にハグやキスを受け入れるのは恥ずかしくて、人形のようにうなだれてみたり、仕方がない体を装って受け入れていた。
特に、おばあちゃんは凄い。ハグの力が世間的なお年寄りとは恐らく桁違いだし、終始異様なテンションの高さで不自由な日本語を話し続ける。しまいには「ゆうあちゃん!だいすき!」「〇〇(母)!だいすき!」と家族中の名前を呼び、愛を叫ぶ。日本語はいつもめちゃくちゃだけど、「だいすき」が言われて嬉しい言葉だということは強く理解しているらしい。その一連が鬱陶しくも愛おしくて、大好きだった。
そんなおばあちゃんが2024年の秋に亡くなった。ずっと私のアイドル活動を応援してくれていたし、バッチリお化粧した私を見るといつも「ゆうあちゃん!かわいい!きれいね!」と連呼してくれた。
楽しみにしていたワンマンライブ、観てもらいたかった。恥ずかしがらずに、喜んでハグされたらよかった。
おじいちゃんもおばあちゃんもどちらも居ない初めてのお正月、一体どんな風に過ごすのだろう。おせちは食べるだろうか。
気がおかしくなった私が、おばあちゃんの代わりに家族にハグして愛を叫んでいたらどうしよう。