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「私とホラー映画」

ホラー映画ばかり観ている。

 

特にB級(飛び越えてC級くらいまで)の「スプラッター」というホラー映画のジャンルが好きで観ることが多い。

 

こんな風になってしまったのは、おそらく父と観た「バイオハザード」の影響だ。当時小学生の私は怯えながら見ていたけど、主人公の卓越した身体能力、迫力抜群のアクション、ゾンビの恐ろしいほどの食欲や食事シーンは衝撃的だった。

 

ゾンビの群れが人の腸を引き摺り出し、麺を啜るように食べるシーンを見た時のショックは忘れられない。人(の姿をしたゾンビ)が人を食べるという私の中の常識が覆された。ホラー映画漬けの私を見るたび、母はいつも「父のせいだ」と言う。

 

よく観るホラー映画は、お化けというよりは人間の怖さをフィーチャーしたもので、理不尽であればあるほど、胸糞が悪ければ悪いほど最悪で最高。ゾンビ、心霊、悪魔と通ってきて、殺人鬼・拷問系でここ数年は落ち着いている。

 

今まで観たホラー映画を記録しているメモを見ると、これまでに約180本のホラー映画を観ているらしい。それでいて恐怖に慣れることなく私は毎回ちゃんと怖がる。お化けは怖いし、叫んでしまうし、手に汗握るし、驚かされれば体が波打つ。最悪なものを目にするたびに、心から「最悪だ」と思っている。ストーリーの理不尽さに呆れ、腹が立ち、放心する。観たホラー映画が夢に出てきて、慌てて飛び起きることもある。

 

それでも何故、ホラー映画を観てしまうのか。

 

ホラー映画を観て、自分の置かれている環境や、当たり前に過ぎていく日常への有り難み、その幸せを確かめているのかもしれない。特に拷問系を観ている時、「生」を実感する。何も悪いことをしていない、ちょっとお調子者なだけの若者が理由もなく手足を切断されたりする。(比べるのも不謹慎だけど)そんな状況に比べたら、今送っている日々にもっと感謝するべきなんじゃないか。私は、私たちは、今、何も最悪ではない…‼︎

 

人が死なない映画を観た方が良いと笑われることもある。人が死ななそうな映画を選んでみたこともあるけど、気づけば死者が出ているし、ホラー映画の「起転転転転…結」のような展開に慣れてしまったせいで、通常の「起承転結」だと退屈に思えて、途中でリタイアしてしまうことだってある。

 

人生を変えた○選なんて、これまで観た映画のラインナップじゃ選べない。もし人生が変わってしまったら、きっとその時は事件沙汰だ。

 

ホラー映画を観て最悪の気分になれるのは良いことなのだ。悪夢を見て目が覚めた後の安心感と一緒。現実は決して最悪じゃない。

 

この先もホラー映画を観て、体を震わせながら、今ある幸せに気づき、噛み締め、感謝し、もっともっと最悪になりたい…‼︎

 

我が家の変わった年越し

 お正月が大好きだ。

 

 いつも目の前のことに必死で、肩で息をするような毎日の時間の流れと違う、お正月にしかない空気がある。忙しい日々も嫌いじゃないけど、誰もが平等にゆっくりすることを許されている気がして安心する。何だか無性に良いスタートを切れるんじゃないかと、底知れない運の良さすら感じる。誕生日よりも盛大に、誰も彼もが一体となって新しい年を迎えることを祝い、喜び、めでたがる日。

 

 そんなお正月の我が家の過ごし方は、お正月に対してしっかり準備をしたり、頭を悩ませずに、世間がやるであろう手順を踏んだり踏まなかったりするというものだ。早速、このイベントのほぼメインであるおせちは食べたり食べなかったりで、我が家全体としてもおせちへのこだわりは誰からも感じられない。私も伊達巻きが食べられたらラッキーくらいにしか思っていない。

 

 でも、お雑煮は必ず食べる。お雑煮は家族みんな好きで、私もこの世に存在する汁物の中でベスト5に入るくらい好きだ。何故、誰に禁止されている訳でもないのに、こんなにも好きなのに、お正月以外で口にすることはないのか。それが毎年不思議で、毎年綺麗に忘れて、毎年食べる頃に思い出す。

 

 そして満腹になった体をソファに投げ出し、延々とお正月特番を観倒す。レッドカーペットに乗って流れてくる芸人さんが次々とネタを披露するお笑い番組を観て、終わったかと思えば今度は東西に分かれて交互にネタを披露するお笑い番組が始まって、私は笑ったり寝たりを繰り返す。気づけば日も暮れて、芸能人が高級ワインを飲み比べたり、高級バイオリンを聞き分けたり、ひたすら「高級物」と「安物」を見分けるクイズ番組を無心で観ながら、自分の空腹に気づく。そんなこんなで初詣は基本的に夕方以降になることが多いし、はたまた数日後だったりする。

 

 だらしなくてベタなお正月だけど、大晦日は一味違う。大晦日はいつも、近くに住むおじいちゃんおばあちゃん、おば、おばII、いとこ…と、家族という家族が私の家に集まり、新年を盛大に迎える。

 

年越しの瞬間は「黄色いものを身に付けておくといい年になる」というおじいちゃんおばあちゃんの言い伝えで、その場に居る全員が黄色い靴下を履く。ずっとその渦中に居ながらこの習慣は特殊な予感がしていて、昔から念のため友達に話したりはしなかった。

 

 日付が変わる瞬間はジャンプをする。楽しい気がするし、空中で年を跨ぐのはなんか格好良いから。これは任意で、基本的に自分しかやっていない。

 

 日付が変わって、各自が一通り感嘆の声をあげた後、 おじいちゃんとおばあちゃんは南米の血が入っているからか、情熱的なハグをしてくれる。ほっぺにはほぼ突進するような勢いで挨拶代わりのキスも。いつだって思春期の私は素直にハグやキスを受け入れるのは恥ずかしくて、人形のようにうなだれてみたり、仕方がない体を装って受け入れていた。

 

 特に、おばあちゃんは凄い。ハグの力が世間的なお年寄りとは恐らく桁違いだし、終始異様なテンションの高さで不自由な日本語を話し続ける。しまいには「ゆうあちゃん!だいすき!」「〇〇(母)!だいすき!」と家族中の名前を呼び、愛を叫ぶ。日本語はいつもめちゃくちゃだけど、「だいすき」が言われて嬉しい言葉だということは強く理解しているらしい。その一連が鬱陶しくも愛おしくて、大好きだった。

 

 そんなおばあちゃんが2024年の秋に亡くなった。ずっと私のアイドル活動を応援してくれていたし、バッチリお化粧した私を見るといつも「ゆうあちゃん!かわいい!きれいね!」と連呼してくれた。

 

 楽しみにしていたワンマンライブ、観てもらいたかった。恥ずかしがらずに、喜んでハグされたらよかった。

 

 おじいちゃんもおばあちゃんもどちらも居ない初めてのお正月、一体どんな風に過ごすのだろう。おせちは食べるだろうか。 

 

 気がおかしくなった私が、おばあちゃんの代わりに家族にハグして愛を叫んでいたらどうしよう。