音楽メディア・フリーマガジン

~関東・東北地方音楽シーンの現状報告~ Vol.21

DAM 駿平(Vo./G.)

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 震災を経て、周りの物事への考え方が変わった。大阪の俺たちが今できること。

地震が起きた時、俺は大阪のライブハウスで働いていて仕事をしていました。“疲れて目眩がしたのかな”と思っていたところ、同僚も同じことを言っていて、その日出演していたバンドが「地震らしい」と携帯をいじりながら喋っていました。すぐに調べてみると震源地は東北。その瞬間、“さっきの揺れが東北?”と背筋が凍りました。

家に帰ってテレビを点けると気仙沼が火の海になっている。大きな大きな津波に人が呑まれている。その日家に帰るまでいつもと同じ風景で、家の中も電球一つ切れていないのに、テレビの中にだけ映し出される瓦礫、水浸しの町。そのテレビの中の世界が想像を絶するもので、嘘なんじゃないかと思うぐらいリアリティーがなかった。

地震から4ヶ月経って、DAMがBRAHMANと共演することになった。BRAHMANがこの地震に対して行動を起こしていたことを知っていたので、その日のライブ終わりにVo.のTOSHI-LOWさんに「俺に何かできないですか?」と訊いたところ、「自分で行って見てこい。あれを見て何も思わない奴はいない。実際に行って触れて自分で何ができるか考えろ。お前には必ず答えが見える」と言われて、人を紹介してもらい、日程を決め向かいました。

俺達が行ったのは宮城県石巻市。津波の被害が酷かったことで有名な町。不安と勇気を詰め込んだ車でメンバーと12時間ほどかけて“絆”というボランティアグループのいる集会所に行き、仕事をもらった。作業をする場所に行く前に、近くにある大川小学校を訪れることになりました。大川小学校は津波で全校生徒108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった学校。車でそこへ向かう時、景色を見ていると、川に近づくにつれて家が段々と形を留めなくなっていった。そして大川小学校に着いて慰霊碑の前に立った時に気付かされた。“この場所で一つの命が沢山無くなって、それがこの近くに何千、何万と広がっている”。大阪にいる時に、向こうに行っても泣かないと決めていたんですが、どれだけ我慢しても涙が止まらなくなりました。

その次に行ったのは石巻の小渕浜という町で、そこで出会った人達はすごく温かく活気があって、ただ前を見ていました。俺たちが何か力になればと思って行ったのに、逆に沢山の気持ちや元気をもらってしまいました。それからというもの、小渕が大好きで“ボランティアしに行きたい”という気持ちから“会いに行きたい”に気持ちが変わりました。向こうの人達も、「ただ遊びに来てほしい」と。

正直、今俺たちDAMがやっていることはボランティアではありません。ただ会いたい人達と会って、手伝えることをやって、夜になると皆で酒を飲む。帰る時に寂しくなってバレないように少し泣く(笑)。そんな感じです。

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